《繊細の精神》なる情況においても論理的なのである
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Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) 〜〜〜〜〜〜
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第一章 精神と文体とに関する思想
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幾何学の精神と繊細の精神との違い。
前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。 したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ あたまを向ければ、原理はくまなく見える。
それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。
ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける までもないし、無理をする必要もない。
ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない とうことがほとんど不可能なくらいだからである。
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(1) これは 短絡して捉えるなら 理性の崇拝 と 象徴による権威づけ とではないのか?
(2) けれども どちらも論理的なのである。後者の――すなわち 繊細の精神の優勢な社会にあっての――クウキ教であっても そこに伝えられることは 表面化しないとしても言葉で表現された内容であるにほかならない。それなりに論理をとおして説得力を持たせているはずなのである。
(3) 何が違うか? 理性とその論理に人びとが従うときの方式にある。
(4) 幾何学の精神が優勢な人間関係にあっては 是が非でも 論理で人を丸め込む。(買収や脅しなどについては いまそう為し得る範囲で取り上げない)。
(5) 繊細の精神にうったえる社会では その論理を象徴とその伝播としてのクウキなる権威に関係づけて人を丸め込む。でもやはり 論理なのである。
(6) われわれ日本人も じゅうぶんに論理的に考えている。もっぱらのアマテラス公民(お二階のえらい人びと)にあってはそれが得意中の得意であるかも知れないし スサノヲ市民が国の内外にわたる問題に対処するときにはアマテラス公民として思惟し行動するのである。
これを問います。