caguirofie

哲学いろいろ

欧米の個人主義者は 孤独につよいか? 

【Q:欧米の個人主義者は 孤独につよいか? ぎゃくでは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9007689.html


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

  (α) 欧米の個人主義なる思想(生活態度)は 
     すでに孤独を言わば織り込んでいて
     しかも孤立することなく 
     社会関係の中でふつうにしかるべく孤独であって強い。

 なる命題について考えます。果たしてそうか?


 (あ) 一本調子では(一筋縄では)行かないように思います。

 (い) 理由は かんたんです。《孤独》の中に《人それぞれのおのが固有の時》を見るとは限らない。からです。そういう伝統は ないはずです。薄いはずです。だからです。

 (う) つまりあるいは 《孤独であることを許容する精神風土》がすでに出来ていると言いますが それは――ヨーロッパ人とその社会における生活感覚がゼロの人間として推測するだけですが―― 要するにその《許容》の仕方は こうであるのではないか? :
  すなわち 《互いに相手との関係をそれぞれおのれの意識の内に捉え すでに初めにおいて互いの対立関係に入り そしてそのあと互いに均衡を図るということ。このように人間関係が成り立っているのではないか》と考えるからです。

 (え) つまり早い話が ヨーロッパ人とて《孤独が孤立に成りやすく やはり孤独に耐えられるかと言えば それほどやさしいことではないのではないか》という藪にらみを事由としたものです。

 (お) 《固有の時》というのは 《わたしがわたしである》その心の庭にあることです。それになじまないならば

   心無き身にも 
   あはれは知られけり
   鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 なる《独りのとき》を知らないのではないか?

 (か) ならば ちょっと言い過ぎになるけれど 目の前の相手と向き合ったとき 多少なりとも《人を見たら 狼と思え( Homo homini lupus. )》なる意識が 互いのあいだに関係を築くことに成らざるを得なくなっているのではないだろうか? むろんその意識の対立について 均衡を図る方法にかんしてはすでに広範な思索を展開し手練手管をも開発して来ているはずだ。

 (き) けれども われわれ日本人は わび・さびの時を知らないではない。

 たしかにわれわれは いざたたかうと成ったときには思慮を欠かしチカラに任せて突き進むことがあった。だから 心の内に《その時》を悔いおのれを咎め おのれの信じるものに対してわびた。

 わびてもわびても 悔いが残った。
 相手が とがめて来るときには その声にしたがった。
 みんながすべて従って来た。

 鴫立つ沢に立っていた。
 わびようが無くなるまでわびた。

 そしてそれでも ゆるされないときには われらが心は さびしさの極みに錆びついてしまった。

 このわび・さびの時を知らないわけではない。

 相手を狼だと思っていなかったことが わるいのか?
 われらが心が あくまだったのか?

 (く) われわれは やはり人間を――意識関係だけとしてでも――狼だとは思っていない。のではないか? すでに鴫立つ沢の孤独には 長い歴史を経てじゅうぶん佇んで来ているのではないか。

 (け) われわれは よわいときにこそつよい。のではなかったか。

 (こ) 欧米人は その個人主義なる思想において 孤独は自明であり 独りある境遇につよいか? ぎゃくではないか?