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哲学いろいろ

たすてん音楽館

《たすてん音楽論集(1)》2015-02-11 - caguirofieからのつづきです。



 ・ このブログでも動画の紹介が出来るのでした。忘れていました。

 ○ ガムシャラな風になれ
 

 ○ 桑名の石取り祭
 

Tastenkasten 2015/02/13 12:37

>のっけから揚げ足取りみたいになって恐縮なのですが

のっけから揚げ足取りみたいになって恐縮なのですが:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  > 文章作法も作画技法も 結局において出来上がった作品全体にとって 或る種のかたちで美学や哲学の要素にもなる。


 というより、技法は美学の前提と言いますか、自己の美学を実現するためには、独自の技術を持つことが必要不可欠になります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわちここで《独自の技術》とおっしゃっていることは 最初の実用音楽美学のところでは 次のように表現されていました。
 ★★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 複数、多数の音楽研究者、学者が、個々の作曲家の作曲技法を分析し、
 その特徴をとらえたものです。
 もちろん、研究者により多少の解釈の違いは出ますが、
 最大公約数的な部分は、広く一般に認められる定説となります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわち 《自己の美学を実現するためには》 多くの創作者にとって共通の技法の中からよいものを取り出しそれ〔ら〕をどのように用いるかとしての《独自の技術》だと思うのです。


この下の★と★★の引用部分は、別の話題で、時間的にも前後することですので、混同するよややこしくなります。
★★の方は、ねこさんのスレッドで問題となったことです。


つまり、優れた作曲家はみな、独自の方法論と技術、音楽語法をを開発するわけですが
そのあと、第三者により評価、研究され、この作曲家のスタイルはこうで、こういう技術を使っていると理論的な説明が行われます。
「最大公約数的な部分は、広く一般に認められる定説となります」というのは、
ベートーヴェンの美学はこういうものですよ、ワーグナーの美学はこういうものですよ、
と、多くの人が共通認識できる形で体系的に説明したものです。


ところが、これらの作曲家の方法が優れているという高い評価を得ると、今後はこうあるべきだ、と、広く規範とする傾向があります。
ベートーヴェンが、その創作美学や技法で新たな、巨大な世界を作り上げた後に、シューベルトのような素朴な作曲家が出てきたとき、
ベートーヴェンと比較して、低い評価をされてしまう。それが間違いだというのが、ねこさんのスレッドでの話題でした。
シューベルトにはシューベルトのやり方があり、ベートーヴェンを基準に評価するべきではないというお話です。


★の方は、それ以前の話、作曲家が創作をしている段階の話です。
作曲の学習に際して、ベートーヴェンや、ほかの作曲家の技法を学ぶ、と書いたことが混乱を招いたかもしれません。
こういうものを学ぶ意味の一つは、過去の作曲家の技法を直接使うことではなく、
彼らがどのように考え、作曲技法を開発していったか、その思考プロセスを追体験することで、
のちに、自分で自分の創作美学や技法を開発するときのための鍛錬とすることです。


よく、ポップスなどの作曲家がテレビに出てきて、作曲というのは、
これまでに合ったパターンを組み替えるだけ、というような安易な発言をしていることがあります。
確かに、ポップスやジャズなどでは、そうなっていますし、そのため、新しいものは出てきにくいです。
共通の技法の中から選り抜くだけでよければ、かなりの速さでたくさんの作品を書くことができます。
それがふさわしい業界もあるでしょう。


しかし、音の組み合わせは、完全に無限ではないでしょうが、可能性はいくらでも残っています。
ですから「独自の技術」というのは、


> 多くの創作者にとって共通の技法の中からよいものを取り出しそれ〔ら〕をどのように用いるか


ということもありますけれども、やはり、無から自分で考案するという姿勢がないと、
独自の美学、様式を確立することはできません。



ただし、これはめちゃくちゃ困難なことで、音楽にしろ美術にしろ文学にしろ、
過去のものからの影響を乗り越えて、独自のスタイルを確立できる人は、ごく一握りにすぎません。
今、われわれの同時代人の芸術家で、それなりに評価され成功しているように見える人はたくさんいますが、
そういう人たちでも、真に独自の世界を築けている人がどれだけいるかははなはだ疑問です。
それがない人は、今は成功していても、いずれ忘れ去られてしまいます。


また、創作の現場では、かならずしも美学とか技術とかを順序立てて準備するわけではありません。
新しいものを作る、という作業が毎日の習慣になっている者にとっては、自然な行為ですので、


>(1) 部品としての要素技法を選択する
>(2) 美学の前提を構想する
>(3) 要素技法の独自の取り扱い方としての用法をとおして美学実現をすすめて行く


といった明確なプロセスを意識しているわけでもありません。
もっとも、現代芸術において、思い切り斬新なアイデアをもって、それを実現しようとする場合は、
前もって、かなり理論を打ち立てておく必要がある場合もあります。
いずれにしても、創作のプロセスはケースバイケース、千差万別で、こういうもの、と定義することは不可能でしょうね。


こちらでのお話はこのくらいにしておこうかと思います。



シューマンのピアノ五重奏について、


>鬼のごとき心で言うとすれば ちょっと単調でした。というより 教科書どおりの要点でまとめられているといったような。


と感想を持たれるのは、それほど不思議ではありません。
ねこさんのスレッドでもお話ししていますが、あのタイプのドイツ人作曲家は、禁欲的、形式的です。
ただ、NHKのプログラムで確認したら、上海カルテットと田部京子と出ていました。
演奏のせいもあるかもしれません。
下の動画は、ヴェルビエ音楽祭で、世界的名手が一堂に会して演奏したものです。
たぶん、同じ曲でも、受ける印象はだいぶ違うと思いますよ。




ねこさんの報告された、ろん -「おちゃめ機能」FUKKIRETA 10 hoursに関しては、
ティーの「ヴェクサシオン」という元祖があります。




naturalさんの書き込みに気が付きませんでした。
brageloneさんのスレッドにいずれうかがったら、古代ギリシャの音楽も民族音楽も張りまくります。

bragelone

 ありがとうございます。こうやって話をやり取りすることができるとはちょっと つい先日まで・つまりこの年が明けた時点でもまだ 考えられなかったことです。持論としての真善美のちょっとした理論だけで見切り発車した恰好です。



 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ですから「独自の技術」というのは、


  > 多くの創作者にとって共通の技法の中からよいものを取り出しそれ〔ら〕をどのように用いるか


 ということもありますけれども、やはり、無から自分で考案するという姿勢がないと、
 独自の美学、様式を確立することはできません。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ あっ。ええ。その点では 舌足らずでした。すなわち言いたかったことは:

 
   多くの創作者にとって共通の技法とされる要素技術の中からよいものを取り出し
   それらを無論みづからの編み出して行く技法のもとに交えて
   全体としてさらに――あたかも画竜点睛のごとく――どのように用いまとめるか


 ということでした。
 ★ 無から自分で考案するという姿勢
 ☆ について触れ得ずじまいになってしまいました。
 ぷらぽ氏の用いる歴史的かなづかひなる技法は それをさらに応用するとかそこに魂を吹き込むとかの態度はもうほとんどなじまないそれとして完結した技法だと思いますが 芸術全般にわたって オリジナルの創作姿勢や美学は泉の水の湧くようにあたらしく現われるのではないかとは思います。量子の確率は無限だとすればというのは わるい冗談かも知れませんが。


 ★ ただし、これはめちゃくちゃ困難なことで、音楽にしろ美術にしろ文学にしろ、 / 過去のものからの影響を乗り越えて、独自のスタイルを確立できる人は、ごく一握りにすぎません。
 ☆ これは ねこさんが《守破離》の問題だと言っていたこととして受け取りました。《離れる》が見通されているということは 独創性というものが言わば一般に信じられていることと思います。創作者はすべからく志し目指すのでしょうね。
 


 ・ シューマンのピアノ五重奏
 ・ サティの「ヴェクサシオン
 ・ なちゅらるさんの提起した民族音楽


 これらを残して一たん閉じることとします。

bragelone 2015/02/13 13:46

 《シューマンのピアノ五重奏》。
 確かに演奏によって違いますね。第一楽章だけで違いが分かりました。


 田部京子の所為か上海カルテットのほうなのか分かりませんが ピアノの音と弦楽器のとが とにかく一体となってくっついたかたちに聞こえたのではないかと分かりました。


 ヴェルビエ音楽祭での演奏では ピアノとバイオリンなどがそれぞれ適当に別々に音をひびかせている感じを持ちました。


 このメロディは聞き慣れていますから その所為もあるかと思うのですが 教科書ではなく参考書でもなく 副読本のおもしろさが まづあると思いました。

 
 それ以上のことは いまこのように比べてみようという態度ではなく聞いてみたときに また感じるものではないかと思いました。
 

 第二楽章は 田部京子らの演奏のときにも いまより音をいくらかハチャメチャに崩したら 面白いのではないかと感じました。

 カッコつけてますか?

bragelone 2015/02/13 14:07

  サティの「ヴェクサシオン」。

 何なんですか これ。ところどころを飛ばして聞いたのですが 初めからずっと同じような調子で 8時間ぢゃないですか。


 これで一曲なんですか。へええっ。知りませんでした。
 これを《 FUKKIRETA 》は 10時間として挑戦ですか。


 まあ 何と言いましょうか。というコメントは おかしいですかね。
 好きとか嫌いとかを超えてますねぇ。

Tastenkasten 2015/02/13 21:09

シューマンピアノ五重奏曲)>第二楽章は 田部京子らの演奏のときにも いまより音をいくらかハチャメチャに崩したら 面白いのではないかと感じました。


先ほどご紹介した演奏では、結構自由にやっています。


第三楽章も。

(サティ:ヱクサシオン)>何なんですか これ。ところどころを飛ばして聞いたのですが 初めからずっと同じような調子で 8時間ぢゃないですか。


詳しくは、こちらをご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3

 『ヴェクサシオン』(Vexations)は、エリック・サティの作曲したピアノ曲である。
 § 解説
 ヴェクサシオンとは「嫌がらせ」「癪の種」という意味である。サティの弟子だったロベール・キャビーRobert Cabyが、フランス国立中央文書館から見つけてきたサティの3曲の遺作のうちの1曲である。ロベール・キャビーはこれら3曲を「神秘的なページ」と名付けて1969年に公刊した。52拍からなる1分程度の曲を840回繰り返す。作曲者のノートには「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためには、大いなる静寂の中で、真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう」と書かれている。


ギネス・ワールド・レコーズでは世界一長い曲とされている。ただし、ショパンマズルカ作品7-5や作品68-4、サティの「スポーツと気晴らし」中の第16曲「タンゴ」のように終わりがなく永遠に繰り返しされる曲や、ジョン・ケージの「ASLSP」のように演奏時間は約639年かかるものが、楽譜化されたより長い曲として存在する。
1963年にジョン・ケージらによって初めて演奏された。この時は10人のピアニストと2人の助っ人が夕方6時から演奏を開始し、翌日の午後0時40分まで演奏をし続けた。日本で初めて演奏された時は、1967年12月31日昼前から1968年1月1日の朝まで年を越して演奏された。このときは、東京・アメリカ文化センターで石井真木、湯浅譲二ら16人によって演奏された。
 2004年5月5日放送のフジテレビ系『トリビアの泉』でも紹介され、実際に3人のピアニストが交替で演奏したところ、全て弾き終えるのに18時間18分かかった。

bragelone

 ★ 先ほどご紹介した演奏では、結構自由にやっています。
 ☆ そうでしたか。演奏者の演奏の自由度と《音の崩し》とはまた別だという思い込みがありました。
 つまり 崩すなら 半ば別の曲になるのかと思っていました。