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哲学いろいろ

Sinn / Bedeutung

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7902069.html
 § 44−8 ことば・指示対象
 ★ 意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)は違います。
 ☆ なるほど。この区別は おっしゃるようにわたしは知りませんでした。言いかえると どちらも《意味》として捉えていました。

 けれども
 ★ 内容をもたない名詞を考えるのは私も困難に思いますが、指示対象をもたない名詞は山ほどあります。時間、空間、一時間、イデア、物自体、肥満、マクゴナガル先生、雰囲気、存在、輪廻転生、四角い三角、価値、善悪、擬態語、百年後の世界、現在、過去、未来。キリがありません。
 ☆ いま急ごしらえで言うのではなく こういう場合には ということは分かりやすい例として《四角い三角》を取り上げますが この場合には語句の意味は 《具体的な意味を持たない》という意味を持つ想像語だということになります。

 《指示対象》として特定しようと思えば 個別のものを例として出せばよいのではないですか?
 《輪廻転生》は 生まれて生きて死んだあと さらにまた生まれて来ることと言えばそのことを指示していませんか?
 《存在》なら わたし(=ぶらじゅろんぬ)がわたしを指して このような人間も存在ですよと答えればよいでしょう。
 ですから もしそのようなドイツ語の区別の存在にあえて異をとなえようと思えば 《指示対象》もとうぜん《意味》のひとつのあり方であると見ることになりましょう。

 別の見方からすれば 《物自体》は 指示対象がないというよりも もともとそれとして意味を想定する語である。ということになります。想定は 観念でよいということではありません。観念は 具体的な経験事象から一たん離れた意味をもつ語としてあり しかもその想像世界にあること自体は 経験事象です。そう(経験事象)ではない何かを仮りに意味する語として想定する場合があります。

 なぜなら 《ディング・アン・ジッヒ》と言うのなら 何か具体物のことを しかも抽象的に 指すということはないのか? と問いたくなるからです。そうではないとするのは それとして定義を決めて想定する語だからではないですか?

 《善悪》にしても ちゃんと定義を決めればよいわけでしょうし 指示対象は何かと問われれば たとえばからだの治療だと具体的に示してやればよいはずです。

 《指示対象をもたない名詞》 こういう分類の仕方には いささか理論性が少ないように思われます。

 § 44−9 指示対象のつづき
 ★ しかし「それ」に指示対象referentなどありません。
 ☆ 《それ》という語は 二人が話し合っている場合 共通に知られているものごとを指すはずです。
 あるいは 一度出て来て共通に知っていると見なされるものを指すはずです。
 そしてこの語などは 意味はあまりなく むしろ指示対象を持つ語として使われているのではないか。

 どれ? という問いに対して もし これだと答えるなら それは答える側のそばにある何かでしょう。
 もし あれだと答えるなら それは 二人のどちらからもある程度遠いところにある何かを指していましょう。(いま思い出す あれだ あれ というような場合もあります)。
 もし それだと答えるなら 何を指しているか? すでに一度二人が一緒に触れて(述べて)いた何かであるか。あるいは 尋ねる側のそばにあって その人が知っているはずのそのものだよと指示している何かであるはずです。そこ そこ そこにあるそれ というような言い方です。
 つまり いわゆる こそあどは 指示対象の区別とその分担をしているとさえ考えられます。

 ★ たとえば「それは正しい」という文では「それ」が「あなたが言っていること」になったり、「それなぁに?」という疑問文では「あなたが手にもっているもの」になったりするだけです。後者の場合ではその使用のさいに「それ」という代名詞が「あなたが手にもっているもの」というリアルな事物をたしかに意味しています。
 ☆ この事例のように その《それ》は 《あなたも知っているとおり あなたがいま言ったことや いまあなたが手に持っているもの》を指示するものと思われます。既知のもの・共有しているもの。またそう見なすものを指示するのではないか?

 § 44−10 《それ》の指示対象
 ★ たとえば発話者が自分から200mほど離れたところにある東京タワーを指さしながら「それは東京タワーです」と言えば、聞き手が「それ」という語にもつシニフィアンと齟齬をきたします。この場合は「それじゃなくてあれ」などのように、「あれ」を使うのが適切であることを教えるでしょう。
 ☆ このばあい聞き手があれっ おかしいと思うのは たぶん《自分が知らないものなのに》ソレという語を話し手は使った。からではないか?
 聞き手が知らない場合なら アレではなく コレによって指示することも出来ます。遠い近いの問題によってでは必ずしもなく 《ともに知っているかどうか》で使い分けるという要素もあるのではないか?

 ★ シニフィエは指示対象ではありません。
 ☆ なるほど こういう分類もあると初めて知りましたが 考えてみれば ソレの指示対象も シニフィエなる意味に含めても別にわるくないと思われます。

 § 44−11 他我
 については この用語じたいが わたしは知らないのです。嫌いなのです。使いたくないのです。

 § 44−12 イワシのアタマ
 ★ 「イワシの頭」は指示対象をもちます。
 ☆ むろん そうして 意味をも持ちます。
 わたしがこの語を例として出しているのは そうではなくどんな意味や指示対象を持っていようと それらをすべて捨象して ただのシルシとして使えば 非経験の場を仮りに代理として意味させることもできる。と言っています。神という語と同じ役目を果たすことはできるということです。

 § 44−13 ふたたび他我
 ★ 他我が存在するというのは原信憑であり、他我は経験できないにも関わらず、他我は存在するということが自明の理として受け入れられているにすぎない。
 ☆ それは 《他者》のことです。
§ 47−1 日本語の《それ》の《意味》

 《それ》は 相手とのあいだにすでにその情報を共有しているという意味合いを帯びているという用法について。
 用例に沿って見て行きます。
  (あ) それにしても 困ったもんだ。

 たとえ相手がいない場合にしても 何かの問題を自分のほかに共有する人がいるという前提(つまりそれが仮想だとしても)でこのソレを言っている。だから 認めはするのだがのニュアンスがあります。

  (い) それはそうと じつは こういう問題があるんだが・・・

 相手も自分もすでに出ている問題をともに共有したということを ソレという語に託している。次の用例も同じであろう。
 
  (う) じつは それなんだが 思うに・・・

  (え) そおれ それそれ お祭りだ・・・

 さあ みんなお祭りの始まりだというふうに 事態の共有をうながしている。

  (お) ほれ(=それ)! ほら(=そら)!

 § 47−2 西欧語の《 id / Es / it 》は 《それ》か?

 その理論を支持して言うのではないが ムイシキにおいてうごめく欲動を《イド / エス》と呼ぶのは どういう意味合いがあるか?

 無意識と言うからには 自分は意志してもおらずその欲動の起因については知らない。《なんでこうなるの?》といった場合である。
 それは 日本語ではたぶん《あれ》と言う。イド=エスがうごめくのは 《あれ》がまた起きたとでも言うのではないか? 必ずしも《それ》とは言わない。

 何か思ってもみぬことが起きたとき 

  (か)あれっ? / ありゃりゃ!?

 と言う。不意を襲われたとき
 
  (き) あれえーっ!

 と言う。あるいは
 
  (く) あれはなあ・・・。確かにそうなんだが・・・。

 というアレの用法は ソレに似ているが・そして同じように《相手との情報の共有》をも示しているようだが それにしても このアレの場合には じつは共有したくないというニュアンスがある。つまり イド=エスを無意識だとするならば それと同じように《得体の知れないもの》というニュアンスがあり これをいくらかは避けている。或る程度遠いところにいて欲しい。 

 こう考えて来ると 意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)とは どういう違いを言おうとしているか?

 § 47−3 《意義 Sinn(意味内容)と意味 Bedeutung(指示対象)》との区別は 何を意味するか

 (47−3−1) 語義はそれぞれ 《センス(感覚)》と《言わばやまとことばで言えばこれこれだという表現》をそれぞれ表わしていましょう。

 そうすると 言語学でそういう区別をしたのでしょうか? 言語学で見落としていたのか わたしは気がつかなかった。それとも 論理学で説くのでしょうか。

 そもそも《意味》は その語が何かを指し示すというそのことでしょう。

 (47−3−2) ですから 次の命題は 専門用語として問題があるということでしょう。

  ☆☆ 「指示対象を持たない名詞は基本的にありません。話し手が使った語であるなら少なくとも文脈がその指示対象を浮かび上がらせます」
 
 少なくとも日本語の《それ》については 当てはまります。《指示する対象》をも帯びていますから。《相手とこちらが共にいるひとつの世界の内側にあって 互いに共有している〔と見なす〕何か》を指し示します。その何かが何であるかは定まっていないのですから そういうかたちにおいて見れば 《意味内容》はないのです。一定の体言をそれに代わって指し示す体言(準体言)といったところでしょう。

 (47−3−3) ちなみに体言とは そのモノがコトとして特に論述として用いられていない段階での言葉です。動態ないし状態に用いられたなら それが用言と呼ばれます。

 《あは!( Ah ! / Oh ! )》というのは まづ文の素と言うべき《超文条件》ですが――《間投詞》というわけは 文の外から 語句と語句の間に それらから独立したかたちでこの《文の素(表出詞)=超文条件》を投げ入れたものという意味です―― これを 親愛称というべき子音の / r / を用いて 

  あは‐れ

 につくります。わ⇒ わ‐れ。か⇒か‐れ。のごとく。そして このアハレのままでも体言相当になりますが 用言につくれば 

  あは‐れ‐み / あは‐れ‐む

 となります。動態用言の概念法(連用形)である アハレミは 概念法に活用していると言うごとく 体言となります。

 (47−3−4) 文〔の元素〕の自己表出および文としての自己表現 ここに使われる語に《意味》が まだ〔考えの混乱によって〕定まらないことはあっても 無いということは考えられません。無意味の語や文を発したとしても それには 無意味という意味があります。

 この《意味》に 意味内容と指示対象とのふたつに分類される要素がある。か?

 そもそも意味内容にしても その内容を指し示しているのではないか?
 指示した対象は 意味内容のことではないのか?

 (47−3−4) ★ 言わば「それ」という指示代名詞へ文脈から様々な語を代入できることから、「それ」という語が指示対象をもつとあなたは考えているようです。
 ☆ そうではないことは すでに説明しています。

 ★ しかし「それ」に指示対象 referent などありません。
 ☆ 日本語では 当てはまりません。イド=エスについては どうでしょう? よく肌で感じるようなニュアンスは 残念ながらわたしは分かりません。

 ★ シニフィエと指示対象は違います。・・・名詞ではない「なぜなら」にも「結論と理由を繋ぐ言葉」というシニフィエがあります。しかしもちろん「なぜなら」に指示対象はありません。シニフィエは指示対象ではありません。
 ☆ 《なぜなら / だから》は わたしの用語では《文条件詞》です。文と文とを何らかの意味合い――たとえば原因と結果や理由と結論の関係――をともなって条件づけるからです。接続詞というのは 条件を示して二つの文の接続をになっていることからです。

 言いかえると 体言や用言のほかの語は 文や語句にかんして何らかの条件を示すものです。ハ格やガ格・ヲ格などなどは 体言と用言とのあいだの意味連絡をにないます。文ヲ語ルでは 述語用言のカタルの客体として ブンが表現されたことを ヲ格〔という論述条件詞〕が示します。

 というのと同じように ナゼナラ / ダカラは 文の付属成分として 何らかの条件づけのハタラキをになう広義に条件詞です。

 ナゼの語源は 必ずしもつまびらかにし得ませんが なにそ(何‐そ)→なにぞ→なぞ(謎)につながりがあることは見て取れます。つまり そういうことを言い出せば 《意味内容》もあると言えばある。(何セムから 何ゼ→ナゼ になったか)。

 カラは 東京から大阪へ行くのカラですが――つまりたとえば起点格ですが―― もともとトモガラ(友から)・イエガラ(家柄)などと言うように 血族ないしそれに準じた関係を言う語だったという説もあります。つまり そういうつながりや関係を意味することによって ダとともに理由を示す文条件詞として用いられるようになった。(起点格カラは 起点と着点とのつながりという意味を指し示そうといています。理由格に用いても同じようです)。

 (47−3−5) このように捉えれば 意味内容と指示対象とを広義の《意味》の基本的な分類に当てるという見解に必ずしも それこそ意義があるとも見られない。

 言いかえると もし指示対象のない語があったとしても それは 文表現においてそれなりの事由によってそれとしての成り立ちと用法を持った語として存在している。のであって 指示対象がない場合を取り立てて 文法の話として持ち出すことに どれほどの意義があるのか? まだ説得されません。
 

投稿日時 - 2013-02-05 11:32:21
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