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哲学いろいろ

佐藤研:『最後のイエス』

アリマタヤのヨセフの話

ヨセフは エルサレムの北西約三〇キロメートル 海辺のカイサリヤの南東約四五キロメートルにあるアリマタヤに居を構えていた。代々大地主であって その町を中心に広大な土地を所有していた。その家系と金力のゆえに 彼は《長老》のひとりとして エルサレムの最高法院の議員にもなった。小柄でまもなく還暦を迎えるが 年に似合わず精悍で 乗馬を趣味としていた。もっとも最近は土地管理の実務を息子に譲り 中央政治のために多くの時を割いていた。


彼には年のだいぶ離れた しかしことのほか気心の知れた妹がいた。彼女はエルサレムの商人に嫁ぎ 息子をもうけたが その二年後には病死してしまった。息子は父方の親族に預けられた。この子の名前をユダといい 利発な子だった。ヨセフは このユダが死んだ妹に顔かたちがひどく似ていたので 何かにつけて彼に目をかけ 休みの折に遊びに来たときなど 特別に援助をしていた。


ところがユダは どうしたことか 二〇歳を前にして家を飛び出し 行商人とも羊飼いともつかぬ職を転々とし始めたという。そして しばらくヘブロンの南二〇キロメートルにあるケリオテに住んだのち ガリラヤへ移ったらしい。その地の新都ティベリアで一儲けできると思ったのであろう。そのガリラヤでユダは 同地の寒村ナザレ村から出た《預言者エス》に出会い その信従者になったという。ユダは その身を案ずる伯父ヨセフに 自分の《師匠》のことについて一度感動を込めて手紙を送ったことがある。ヨセフはそれによってイエスのことを聞き知ったのだが 社会の有象無象と一緒に浮浪生活をおくる《預言者》の姿は うさんくさかった。


ある年の過越祭の少し前 ヨセフが最高法院の仕事でエルサレムの別宅に滞在していたとき 人づてに聞けば このイエスが過越祭に向けて上京したという。その一行に 甥のユダも加わっているというのだ。神殿の前庭で民衆に教えているという情報を得て さっそくその場に足を運んだ。


あの広い神殿前庭の西の一角に黒山の人だまり( sic )ができており その中心にその預言者らしい人物がいた。案の定 そのそばに甥もいた。預言者は二 三人の律法学者とおぼしき者らと激しく議論している。何を話していたのかは聞き取れなかったが 突然皆がどっと笑い出し やがて律法学者らが顔を真っ赤にして憤然と去って行くのが目に入った。そのうちの一人は たしかに最高法院の同僚のナタナエルだった。視線をふたたび群衆の方に転じると 群衆の切れ目からこちらを見ているユダが目に入った。ユダは何か預言者に話していた。あそこにいる者が私の伯父です とでも言っていたのだろうか――すると預言者もこちらを見て にっこりと笑った。ヨセフはとたんに形容しがたい感触に襲われ その場に立ち尽くした。やがて人々がまた集まり始め それ以上預言者もユダも見えなくなった。
《何者だ あの男は・・・》。


過越祭の三日前の朝になっても ヨセフはまだエルサレムにいた。仕事が長引いただけでなく 甥のことが気になって仕方がなかったのである。すると 祭司長たちがガリラヤの預言者エスとその一味を捕縛して抹殺する計画だとひそかに知らせる者があった。ヨセフの胸を暗い不安が横切った。彼は自ら 甥とそのガリラヤの預言者の居場所を探ろうとしたが いっこうに手がかりはなかった。


そうしているうちに 過越祭の前日の夜が明けた。皆が過越祭の準備に追われ始めた。やがて午後が下り ヨセフ自身がアリマタヤの家族の許に戻ろうとしていた時 再び当局から知らせがもたらされた。祭司長たちがガリラヤ人イエスを逮捕した それも その弟子たちの一人で《ケリオテの男ユダ》という若者が師を裏切ったため捕縛できたのだ という。そしてイエスはローマの総督から反逆罪として杭殺刑を宣告され 刑はさきほど髑髏の丘で執行された と。


《あのユダが何をしたのだ・・・》。暗い不安にかられたヨセフは 帰郷の途に就くいでたちのまま通りに飛び出た。おりしも 何人かの若者が走りながら叫んで通った。《杭殺刑だ 杭殺刑だ! それも三人も一緒だってよ!》


《まさか ユダも処刑されたのでは・・・》。激しい胸の鼓動を覚えながら ヨセフは混雑する街を横切って 《髑髏》と渾名される域外の石切場へ向かった。ようやく城壁を出ようとしたとき ふと誰かの視線を感じたようだった。見ると やや離れた一角に甥のユダがいた。階段の端から 亜麻布の着物の裾で顔を覆いつつ わなわなと震えながらこちらを見つめていた。《ユダ! 無事か!お前は何をしたのだ》。ヨセフが近づこうとすると 《そうじゃねえ そうじゃねえ!》と若者は狂ったように叫び ユダは臀部を丸出しにして人混みの中へ逃げていった。その後を 野良犬二匹が吠えながら追いかけていった。ヨセフは衝撃のあまり しばらく動けなかった。


彼方の石切場の上には たしかに三本の杭殺柱が立っていた。左右の罪人たちはまだうごめいていたが 真ん中の人物はぶらさがったままもう動かなかった。直感的にそれがあの預言者だと知った。時はもう午後の半分を過ぎただろうか 日没からは過越祭が始まろう。過越祭に 木に掛けられた罪人がぶらさがっているのはあまりにもおぞましく ローマ軍もそれを考慮し おそらく祭の前に罪人たちの息の根を止め死体を始末するだろう。どこかの穴の中に放り込まれる。正式な葬りを施されることなく滅却させられれば 呪われた罪人はあの世でも決して浮かばれることはない。すると 師を《裏切った》という小心な甥のあの苦しみはこれからどうなるのか・・・。ヨセフは直感的に思った――少なくともあの預言者には 人並みの墓を与えておかねばならぬ。それも 日が変わる夕暮れ前に。


ヨセフは急いで総督ピラトゥスが滞在していた宮殿に向かった。彼は総督がユダヤに着任し 海辺のカイサリヤに居を構えたとき以来 アリマタヤから総督邸に出向き さまざまに総督を接待し また《献金》を上納していた。したがって 彼が総督にイエスの死体を乞い願ったとき 総督は特に事由を問いただしもせず 《ヨセフの頼みだ よかろう》と言った。ただ杭殺刑につけられたガリラヤの預言者が数時間で死んでしまったというヨセフの言葉を怪訝に思い 百人隊長にそれを確かめさせた。しばらくして隊長が 《たしかに〈ユダヤ人の王〉はもう事切れております》と報告すると 総督は《では 勝手にするがよい》とヨセフに申し渡した。


ヨセフは二人の下僕に命じて 必要な担架その他を備えさせ 共に石切場へ向かった。ちょうど日が傾き始めた頃だった。預言者の両隣の罪人たちは すでに《始末》されていた。ローマ兵が脛を砕いて窒息死を誘発し その後運び去ったのであろう。中央の預言者だけが また杭殺柱にぶらさがっていた。その周りに 数人の女たちがうずくまって泣いていた。過越祭の開始が間近に迫っていたので 近くを往来する人の数はめっきり減っていた。


ヨセフたちは預言者を降ろしにかかった。手首と足のくるぶし周辺に打ちつけられた釘がなかなか抜けず 難儀だった。手首は裂けており 両腕と両足はことごとく黒ずんでいた。鉛の玉を先端にしつらえた鞭打ちを処刑直前にこうむったせいであろう 背中の皮膚と肉は熊手でえぐったように飛び散り 背骨や胸郭の一部が露わになっていた。彼らは無惨な死体を黙々と担架に乗せ 運び始めた。さきほどの女たちが おそるおそる後からついてくるのがわかった。ヨセフはこの間 預言者の顔だけは見るのを避けていた。


やがて彼らは 一家の新しい横穴式の墓に着いた。これは後妻のヨハンナにもう先がないらしいので エルサレムに葬られたいという妻の願いを聞き入れ ヨセフ自身が長男に指示して掘らせたものであった。墓の入り口で ヨセフは死体を担架から降ろさせ 亜麻布にくるみ始めた。そのとき 思わず預言者の顔が目に入った。


それは 落日の残光の中で異様な印象を与えた。顔だけは思ったほど崩れておらず 苦痛の跡もほとんど残っていなかった。目は見開いて 口も丸く開けたままであったが 不吉なものがなく ちょうど少年が明るく《オーィ》と叫んでいるように見えた。《まるで昔の石膏像のようだ・・・》とヨセフは思った。すると 一瞬 数日前のあの人混みの中で この人物がこちらに向かって微笑んだときの印象が鮮明に甦った・・・。


《ご主人様 どうされましたか。もうそろそろ行かないと 本当に暗くなりますが》。下僕の言葉でヨセフは我に返った。そして死体を墓の中に運ばせ 入り口を大きな岩で塞いだのち そそくさと帰路に就いた。



 ☆ (註)として 《杭殺刑》と表現したことの説明がある。 ギリシャ語 stauros は単に《杭》の意味であって 十字のかたちではないからと。T字型だとは言う。(かなり詳しい説明がある)。

マリアの回想

空の墓より

その夜は 珍しく晴れ渡った空に 満月に近い月が浩々と輝いていた。しかし大気は寒々として 風は肌を切るようであった。
鶏が最初に鳴く頃 西の方から驢馬に乗って足早に聖都に近づいてくる二つの人影があった。彼らは さらに一頭の空の驢馬を引いていた。
先頭を行く男の名はエレアザル 年の頃は四〇歳前後であろうか。アリマタヤ出身の最高法院議員ヨセフの長男であり 今や父に代わって 広大な農地を管理経営していた。その彼に従っていたのは 腹ちがいの末の弟で まだ少年らしさの残る 二〇歳前後の青年だった。


エレアザルは昨日 父より聞き捨てならぬ話を聞いた。父が 一昨日の午後 杭殺刑に処せられた反逆者の遺体を 家族の墓地に埋葬した ということであった。杭殺柱に掛けられた者は神に呪われた者であり 埋葬なぞされず ヒンノムの谷あたりに臨時に掘られた穴の中に投げ込まれ 始末されるのが常套であった。ところが父親は何を思ったか この男が一週間前に城内に入って来た日から 神殿で語る彼の話に折に触れて耳を貸し どこか《深く頷くもの》があったなどとうそぶいた。そのため 男が杭殺刑に処せられた後も その死体がゴミのごとく処理されるのに忍びず 以前から裏金を渡していた総督ピラトゥスに乞うて死体をもらい受け 一族の新しい墓に納めたというのであった。


エレアザルは 親父は耄碌した と憤った。本当にその通りですか と問い詰めると 父はあっさりと認めた。一族の恥と呪いの種なぞを早速除去するように訴えたが 頑固な父は承知しなかった。激しい口論になっても 父は譲らなかった。親父は気が狂ったと断じたエレアザルは 安息日の開けた晩 意を決した。父親の寝込んだ夜半 末の弟に随行を命じ アリマタヤの邸宅を驢馬を引いて抜け出して来たのである。

やがて彼らは 聖都郊外の彼ら一族の墓地に近づいた。右手には 《髑髏の丘》と言われていた石切場が目に入った。その一角には 三本のT字型杭殺柱がまだ立てられたままになっていた。そのどれにも罪人の影はなかったが まだ臭いが残るのであろうか 野犬が周りに数匹徘徊していた。《畜生 あいつか・・・》。エレアザルは かすかに吐き気を覚えた。


彼は 一族の新しい墓の前に至ると 驢馬を降りた。この墓は 病床にある継母ヨハンナの先がもはや長くはないらしいので 最近彼自らが父の願いを受けて陣頭指揮しつつ岩にくり抜かせたものであった。《おい 石をのけるぞ》。そう弟に言うと 墓の前の大石に手を掛けた。ようやく石が動くと 彼は中に入った。墓は暗かったものの 幸い月明かりで ぼんやりと形の見当はついた。
たしかに 大布にくるまれて死体らしきものが奥に置いてあった。二 三歩近づくと 異様な死臭が鼻を襲った。エレアザルは 口中に黒ずっぽい味がし 改めて嘔吐を覚えた。死体の足もと辺りの布をつかみ まるごと引きずって 外に引っ張り出した。
《ヨハナン その驢馬をこっちに引いてこい》。弟に命じて驢馬を引き寄せ その上に二人で死体を引き上げた。死体は既に硬直していて なかなか驢馬の上に安置されようとはしなかった。エレアザルはそれを縄で幾重にも驢馬の背にくくりつけた。その間も死臭がまとわりつくようだった。《兄さん えらく臭いな!》 弟が訴えた。


彼らは聖都の城壁づたいに南下し やがて月明かりを背に 急いで都を離れて行った。


エレアザルは思った――こいつの死体が 再び発見されては面倒なことになる。完璧に処理するにしくはない・・・。彼にはあてがあった。死体を乗せて 彼らはユダの荒れ野へと延びていく細道をたどって行った。


岩と土砂しかない道を どのくらい早足で進んだだろうか。周りはもうそろそろ明るくなっていた。やがて ある崖の縁にたどり着いた。そこからはほぼ四五度の傾斜で 谷底へと三 四〇メートルほどは下っている。
《おい やるぞ》。エレアザルは弟に声をかけ 驢馬から死体を布にくるんだまま降ろして 崖口まで運んだ。《いいか 一 二とゆらして 三で投げるぞ》。兄弟は息を合わせて死体をゆらし 一挙にそれを崖淵から投げた。死体は大布にくるまれたまま 勢いよく転がり始めた。やがて布も吹き飛び 肉塊だけが加速度を増して落ちて行くのがわかった。途中 岩や灌木に当たって幾度か宙を舞いながら やがて谷底に達して動かなくなった。


《いいか このことは誰にも言うな。親父に聞かれても 知らんふりをするのだ。お前が生きている限り 誰にも言うな わかったな。さあ 帰るぞ》。兄エレアザルの言葉に 弟はわなわな震えながら 三度 四度と頷いた。兄弟は改めて驢馬にまたがり 再び荷軽になった一頭の驢馬を引きながら 再び足早に都の方角へ戻っていった。

折しも 太陽が東方から純白の光を投げ始めた。遠くに見える死海の表面が 銀盤のように照り返している。ほどなくして 周りの空には幾羽もの禿鷹が舞い始めた。

   *

その頃 聖都では かつてのイエスの同志たちが恐慌のうちにあった。墓の場所を知っていた女たちが イエスの遺体がなくなってしまったと言い出したのである。同じ頃 《イエス様が自分に現われた》とわななきながら報ずる者が出てきた。やがて同志たちの幾人かは 《神がイエス様を起こしたのだ・・・。だからお墓にはおられないのだ・・・》と触れ回り始めた。背筋が凍るような畏れが 一同の中に伝播していった。


それからちょうど二週間後のある日の昼下がり ケリオテ出身のユダは 例の石切場を遠くに望む地所の高台から落ちて腹が裂け 死んだ。ある人々は自殺を疑ったが 多くの者は《神罰にちがいない》とささやき合った。

悲劇と福音―原始キリスト教における悲劇的なる...
清水書院 佐藤研
はじまりのキリスト教
岩波書店 佐藤研