caguirofie

哲学いろいろ

 アウグスティヌス/ Ephes.2:1-3

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 ▼ (アウグスティヌス:エペソ書 2章に寄せて) 〜〜〜〜〜〜
 〔第13巻 § 12 [16]〕 人類は神の義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。最初の人(アダム)の罪が両性の結合によって生まれるすべての人の中へ原初的に( originaliter )移り行き そして最初の親の負い目が子孫全体を拘束する。

 この悪魔への引き渡しは先づ『創世記』において意味表示されている。そこにおいては 神は蛇に《お前は地(つち)を食べるであろう》と言われた後で 人間に 《お前は 地である。そして地の中へ行くであろう》(創世記3:14、19)と言われた。この 《お前は地の中へ行くであろう。と言われたことは 身体の死を予告するものである。なぜなら もし人間が正しく造られたままにあり続けたなら 身体の死そのものも経験しなかったであろうから。

 ところが 生きている人に 《お前は地である》という言葉は人間全体がより悪いものに変えられたことを示す。《お前は地である》という言葉は 《私の霊はこれらの人間のうちに留まらないであろう。彼らは肉であるから》(創世記 6:3)という言葉と同じ意味である。だから あのとき 神は人間を 《お前は地を食べるであろう》と語られたものに引き渡されたのである。



 使徒はこのことを一層 明らかに次のように述べる。

   あなたたちは先に自分の罪過と罪によって死んでいた者で
  あって かつてはそれらの中で この世の霊に従って 空中
  の権能の君主 すなわち不従順の子らの中に今も働くこの霊
  の君主に従って 歩いていたのである。
   また私たちもみな かつては彼らの中にいて 肉と情念の
  意思を行ないつつ 肉の欲望において日を過ごしていたので
  ある。そして私たちは他の人々のように本性的に怒りの子ら
  であった。(エペソ書2:1−3)

 不従順の子らとは不信実な者である。信実な者になる前には誰がそうでないだろうか。このゆえに すべての人間は原初から《不従順の子らの中に働いている》空中の権能の君主の下にある。原初から と私が言ったのは 自らも他の人々と同じように 《本性的に》そうであった という使徒の言葉と同じ意味である。つまり 本性的に とは罪によって堕落した限り ということであって 初めから正しく造られた限り ということではない。



 しかし悪魔の権能の中に人間が引き渡されたその仕方は あたかも神がこれをなさった あるいは そうなるように命じられたかのように理解すべきではなく 神がただそれを許された しかも正当にも許された と理解しなければならない。

 なぜなら 神が罪人を見棄てられることによって罪の制作者(悪魔)がそこに侵入したからである。しかも神は 創造し 活かしたまう神として また悪しき者には罪の罰である悪しきものと共に多くの善きものをも与えたまう神として 御自分の被造物に御自身を示さないまでに被造物を見棄てられたのではない。

 なぜなら 神は御怒りにおいてもその憐みを抑制されなかった(詩編 76:10)からである。神は人間を悪魔の権能の中にあることを許されたときも 人間を御自身の権能の法から除去されなかった。なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方〔の善性から無縁でないようにその権能からも無縁ではないから 悪逆の天使たちも 万物を活かしたまうお方〕によるのでなければ その生命がいかなるものであれ どうして存在し得るであろうか。だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめたなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。
 

 〔第13巻 § 13 [17]〕 悪魔は神の権力によらず その義によって克服されなければならなかった。だが全能者に優って力あるものとは何であろうか。あるいは いかなる被造物の権能が創造主の権能に較べられ得ようか。ところが 悪魔は自分の邪曲(よこしま)な悪徳によって 権力を愛すもの そして義の背棄者 また敵対者になった。かくて人間は義を無視し あまつさえ憎んで 権力を求め それを獲得することによって悦び あるいは情欲によって燃え上げられるにしたがっていよいよ悪魔を模倣するようになるのだ。

 それゆえ 人間を悪魔の権能から引き抜くために 神は悪魔を権力によってではなく 義によって克服することを嘉しとされたのである。かくして キリストに倣う人間は権力によってではなく 義によって悪魔を克服しようと求めるべきである。権力は或る悪しきもののように回避されるべきであるのではなく 義を優先せしめる秩序が守られなければならない。死ぬべき者の権力はどれほどのものであり得ようか。


 だから 死ぬべき者は義を保持すべきである。権力は死ぬべからざる者にこそ与えられるであろう。この力に較ぶれば地において力ある者と呼ばれる人の力がどんなに大きかろうとも 畢竟 笑止千万なほど無力なことが分かる。

 悪しき人の力極まるところでこそ罪人のために墓穴が掘られるのである。されど義人は歌って言う

   主よ あなたが訓練したまう人は幸いなるかな。
   あなたは あなたの律法(のり)もて彼を教えたまうのです。
   あなたは罪人のために墓穴が掘られるまで 
   その人に禍いの日に和らぎを与えたまう。

   主は義が裁きに変わり 義を持つ人がみな正しい心になるまで
   御民を拒絶なさらず その嗣業を見棄てたまらないからです。
    (詩編 93(または 94) :12-15 )


 だから 神の民の力がまだあらわれないこの時に 《主は御民を拒絶なさらず またその嗣業を見棄てたまわない》のである。今 敬虔な人々の弱さが持つ《義が審きに変わるまで》 言い換えると義が審きの権能を受け取るまで 謙虚にして弱き義はいかに大きな苦悩と不正を耐え忍ぶであろうか。審きの権能を受け取ることは力が その秩序によって先行せる義に随伴する時の終末まで 義なる人々に留保されているのである。・・・
  (『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975)
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 ☆ 次の三点につき 入力間違いをただしました。つつしんで お詫び申し上げます。

 ・第4段落:
 x  使徒はこのことを≫一番≪ 明らかに次のように述べる。
 ○ 使徒はこのことを≫一層≪ 明らかに次のように述べる。

 ・§ 12 〔16〕 の最後の段落
 x なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方≫・・・(この箇所を抜かしてしまいました)・・・≪によるのでなければ
 ○ なぜなら 悪魔でさえも全能者なるお方≫の善性から無縁でないようにその権能からも無縁ではないから 悪逆の天使たちも 万物を活かしたまうお方≪によるのでなければ

 ・§ 12 〔16〕 の最後の一文:
 x だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめ≫る≪たなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。
 ○ だから もし罪の行為が神の正しい怒りによって人間を悪魔に服せしめたなら たしかに罪の赦しは 神の憐みに満ちた和解によって人間を悪魔から救い出したのである。