あそび
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある今様(いまよう)の一節
▽ 仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬ
☆ とさとったところで あぁ とか あはぁ とかあるいは
▽ あはれ!
☆ という自己表出があった。
この《うつつ》にあっては
無限なるブッダターと
有限なるわが生わが思考わが感性とは
矛盾なり
しかもこの矛盾をもちこたえるのが
われらが非思考の庭なるハタラキなり
矛盾に我慢がならないのは
おそらくこのウツツのほかに
ブッダの常寂光土が別にあると思う
その心なり
よって
あはぁ。
という表出を得た。
このウツツであそぶというのは おのれを日から日へうんうんと推しつつ 自分のために自分の家族のためにちょっぴり周りの人たちのためにも ちからを尽くすこと。これよりほかにない。とさとることである。(無住処涅槃)。
この道をあゆむ者にはやがて魚が網に掬われるかのごとく何ものかに拾い上げられ そこにボディサトワなるハタラキもつけくわわり その人はたわぶれの中にもみんなと一緒にすすむという姿へと変えられてゆく。前史から後史へとステージをあらためて そこにあそぶ姿が実現してしまう。
それはあたかも子どもたちがあそぶ姿に似ているであろうとひらめいたゆえ こう語った。:
▽ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ
すなわち《ゆるがされた》のなら あそぶのは うつつのいま・ここであり――ここが ロードスであり―― あそぶ姿に変えられるのも すでにいま・ここにおいてである。(即身成仏。即得往生)。
*
▽ 仏は・・・ほのかに夢に見えたまふ
☆ ゆえなる遊びなのでしょうね。そうとしか考えられないようです。
ということは 思考の領域だけでは味わえない仕組みになっているかと。
このところ こんなものを引っ張り出しました。
▲ (《バガワ゛ッド・ギーター》 2・46)〜〜〜
あたり一面が洪水に見舞われた。
そこに池もおおわれた。
ならば ブラフマンにとって
あらゆる知識(ヱ゛ーダ)は
この池のようなものである。
〔紀元前五世紀ごろ〕(辻直四郎訳)
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どう見るか?
ブラフマン(ないし ブッダ)にとっては 《あらゆる知識としての池》が洪水に遭っているような状態であり なおその外にも水は満ち溢れている。
池も洪水も 水が共通である。池の水たる知識について 池の外つまり知識を得ていないところ つまり無知(未知)の領域にもその水たる知識があたかもおよんでいる。ということなのだろうか。
もしそうだとしたら それは 飛躍をもともなって広く《あそび》なのであろうと思われます。無知も既知もいっしょであると。