caguirofie

哲学いろいろ

ブディズム

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 ★ 『スッタニパータ』第五章の1146にヴァッカリ尊者の名前が挙がっていますが、ここでは「信を発こせ」または「信を寄せよ」とあります。(中村元師の説では「信を捨て去れ」となっていますが、私は村上真完師の「信を発こせ」という説を採用します。)
 ☆ ここは まづ原文(翻訳)を確認しておきます。つまり 中村元も 修正した訳をも出しています。

 ▼ (スッタニパータ) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

 1143 〔ピンギヤの発言:〕信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、わたくしは傾くのです。

 1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。

 1145 わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>(正覚者)にお会いしたのです。」


 1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

 * 別訳:「ヴァッカリ・・・が信仰により了解したように そのように汝もまた信仰によって了解せよ。汝は死の領域の彼岸に至るであろう。ピンギヤよ」。
 (中村元訳:『ブッダのことば』 1958初版。1977・23刷版。これのさらに新しい版も出ているようです)。


 1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

 1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

 1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」
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 そこでまづ この引用部分でも《1144 ・・・想いを馳せて常におもむく》とも言っているように ゴータマのブッダであることの徳を思いその内容に心を集中しておもむくといった でしょうかの《仏隨念》が ここで鍵語となる。すなわち 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》という:
 ★ 『サンユッタニカーヤ』の言葉も 仏随念と関係したものと考えるのが自然でしょう。
 ☆ ということですね。

 ということは たぶんたとえば
 ◇ (回答№4) ここで語られている法・dharmaは、有為法(つくられたモノ)や、現象の真実の姿・《法性》のことを言っているようですね。
 ☆ というごとく いまのこの《法》は 《ブッダ(仏)であることの徳などをそなえた真実の姿についての 隨念》のことを言っているのだと。

 《法を見る》が そのように《仏隨念》のことだとすれば 当然のごとくゴータマはそれが《ブッダである私を見る》ことだと説明している。こうですね。

 そうして 念のために確認するなら 決して《神のことではない》 ですね。つまり《法身仏》とは関係ないのだと。





 ここで ひとつだけ 疑念をつづります。すなわち
 ▼ (スッタニパータ) 〜〜〜〜〜〜〜〜
 1074  師《ゴータマ)が答えた、
    「ウバシーヴァよ。
    たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
    滅びてしまって(火としては)数えられないように、
    そのように聖者は名称と身体から解脱して
    滅びてしまって、
    (生存するものとしては)数えられないのである。」
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 ☆ という説明を文字通り受け取るなら すでにゴータマは ブッダとしてはふつうの人の目には見えない状態にあるとなるのではないか?

 つまりは 形のある身体としての姿が目に見えないというだけではなく 一般に概念ないし観念としての姿をも つまり徳やそのチカラとしてのハタラキについても 人が見ることは出来ない。となるのではないか?
 
 それなのに 《仏隨念》をおこなうとおっしゃっている。――これは 矛盾ではないのですか?








 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 マヒンダ長老は
  「遺骨を見ると、ブッダに会ったことになるんです。」
 と答えています。この「ブッダに出会う」というのが上述のような意味になると考えられます。
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 ☆ この《上述のような意味》というのが よく分からなかったのですが?

 つまり
 ☆☆ 法身仏=応身仏ゴータマ という想定
 ☆ という意味合いのことでしょうか?

 《遺骨を見る》のは 《実際のゴータマを見る》のと同じことになる。とすれば それは 先ほどの《法を見る》という意味であり それは 仏隨念ということであって けっして《神――法身仏――を見ることではない》わけですから ましてやこの《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》にまでは到らない。ということでしょうね。

 そうなると よく意味が取れなくなります。


 でも おっしゃっているのは どうもそのようですよね。ただ
 ★ しかし、bragelonne氏の言うように「法身仏=応身仏ゴータマ」ということに限定されるものではありません。
 ☆ というだけであって この《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》をその基本内容としてふくむ。ということのようですよね?


 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、お釈迦様は跡取り考えていたサーリープッタ尊者が亡くなった時に、わざわざ自分のもとに遺骨を届けさせ遺骨を掌に載せてその遺徳をしのんでおられたとあります。そして、そののちスダッタ長者にサーリープッタ尊者のストゥーパを立てることを許しています。つまり、この遺骨に対する仏教のスタンスから考えて、応身=法身であったとしても、法身=応身ゴータマという限定的なものではなくほかの弟子にも適用できるとと考えます。
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 ☆ すなわち 《仏隨念》であった《法を見る=ゴータマ(実在の身および仏舎利)を見る》から 一気に《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》にすすんだと見受けられるのですが このあたりについて説明をお願いしたいと思います。

 つまり上の長い引用箇所では 《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》を基本として いわばそれに準じるかたちで 弟子たちについても《法身仏=応身仏ゴータマ という想定》が適用される。と表明されたものと思われます。

 ううーん。けっきょく 《ゴータマは 神――法身仏――である》のですね?