知恵=フクマーと言葉=ロゴス
▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) 〜〜〜〜〜〜〜
はじめに ことばがあった。
ことばは かみとともにあった。
ことばは かみであった。
このことばは はじめにかみとともにあった。
すべてのものは ことばによって成った。
成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
ことばの内に いのちがあった。
いのちは 人を照らすひかりであった。
ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
くらやみは ひかりをとらえ得なかった。▼ (箴言8:22−36) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
22: 主は、その道の初めにわたしを造られた。
いにしえの御業になお、先立って。23: 永遠の昔、わたしは祝別されていた。
太初、大地に先立って。24: わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。25: 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
わたしは生み出されていた。
26: 大地も野も、地上の最初の塵も
まだ造られていなかった。27: わたしはそこにいた
主が天をその位置に備え
深淵の面に輪を描いて境界とされたとき28: 主が上から雲に力をもたせ
深淵の源に勢いを与えられたとき29: この原始の海に境界を定め
水が岸を越えないようにし
大地の基を定められたとき。30: 御もとにあって、わたしは巧みな者となり
日々、主を楽しませる者となって
絶えず主の御前で楽を奏し31: 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
人の子らと共に楽しむ。32: さて、子らよ、わたしに聞き従え。
わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。33: 諭しに聞き従って知恵を得よ。
なおざりにしてはならない。34: わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい
戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。35: わたしを見いだす者は命を見いだし
主に喜び迎えていただくことができる。36: わたしを見失う者は魂をそこなう。
わたしを憎む者は死を愛する者。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆ 《ことばは肉となった》などなどとは言っていないようですけれど この箴言の《わたし》は 8:33 の《知恵:フクマ―》のことだそうです。
《知恵》と《言葉:ロゴス》との違いが ヘブライイズムとヘレニズムとのあいだにはあるようです。
◆正しい者は一人もいない
ローマの信徒への手紙/ 03章 20節
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
◆信仰による義
21節ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22:すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
31節 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
◆隣人愛
ローマの信徒への手紙/ 13章 08節
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。