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哲学いろいろ

神に近づく(2)

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

★(No.1補足欄) そもそもが、精神的なことそれ自体が神であるということですね。
 ☆ いいえ。人間という存在は 身と心とから成り それらを超えて 神の領域が――《非経験の場》として――想定されます。

 つまり 神は人間を超えています。絶対的に超えています。
 
 ただし だとするとこの絶対的な《非経験の場》というのは 相対的で有限なこの経験世界を ひょっとすると 覆い包んでいるということかも知れない。ということが――単に想像し推論をおよぼしただけですが――帰結されます。

 その限りで言えば 神は そのようなナゾの何ものかとして 人間なら人間を包み込んでいる――または いわゆるあまねく存在するというごとく遍在している――とまで想像が伸びます。

 つまりは ニュートリノのごとくわれわれを貫いているかも知れないし だれかの絵のように指先でわれわれにそうっと触れているかも知れないし あるいはわれわれの世界いっぱいに遍在している。かも知れません。

 このことは あくまで非経験の場であるからには それを仮りに人間が受け容れたとしても あくまで《非思考の庭》においてしか成り立ち得ません。これが 信じるという人間の行為のことです。この行為は 経験的な意志行為です。相手は ナゾの何ものかです。




 つまりは もしこの神を誰かが捉えたというなら それは あくまでその人の主観だけの問題だということになります。
 主観内面において神に触れられていると仮りに言ったとしても それは 精神でもなければ身体でもない。はずです。非経験と非思考との問題なのですから。

 ただし もしその非経験の場なるナゾが われわれの存在を包み込んでいるのなら それを――主観として捉えたという場合には―― 精神としても感性としてもあり得る。ということにまで 想像が広がります。

 すなわち
 ★ 精神的なことそれ自体が神であるということですね
 ☆ とは成りません。そうは成らず その精神をも超えたところで 受け容れているはずです。

 人間の精神は 相対的でうつろいいくものであり 有限です。神は 絶対です。神は 精神ではありません。身の感性でもありません。
 次の図式で 神の位置すなわち 精確には 神を受け容れた人間における神〔の信仰〕の位置づけを確かめてください。

 ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 〜〜〜〜〜

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

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 わが心なる非思考の庭で ひとは神を受け容れているはずです。

 思考の緑野が 精神であり 感性の原野と合わせて――つまり心と身とで―― 人間の自然本性を成します。これらを超えているのが 神でありその信仰です。
 
 その《非思考の庭》は 《心の明け》としていますが これの意味は こうです。すなわち 明けと言っても 心に必ずしも窓があってそれを開けるということではなく そうではなく 言ってみれば《心を閉じていない》ということ これを意味します。世界の人びとのあらゆる信仰――その名がちがっても とにかく神――に対して 心を閉じていないということ これが 《非思考の庭》の生きたすがたです。《思考に非ず》なのですから すべてに開かれているというわけです。

 信仰において 自分たちの神のみを大事にするというのは あくまで 《思考や気持ち》にとっての神のことです。つまり 人間が勝手につくった神のことです。ほんとうの神は そうではないはずです。






 ★ ということは、苦も楽も、すべて神の世界のことになるとしたら、なぜお坊さんたちは苦行する必要があるのか?
(滝に打たれるとか断食というような物理的な苦しみも悟るには程遠い、むしろ見当違いなことをしているのではないかと昔から疑問でした。荒行ではなく瞑想でも悟れるというのですから、むしろこちらの方が冷たい滝に打たれない分楽ではないかと)
 ☆ 一般に修行は 荒いものも苦しいものも楽なものもふくめて 人びとの趣味嗜好だと捉えてください。趣味としてやるのは 自由です。そして それだけのことです。

 神は遍在ですから その趣味の世界にも 存在するかも分かりません。


 ★ つまり、苦も楽も神の世界ということになれば、現実世界がその反映だとすれば、それこそ不条理以外の何物でもなく、あの世に行っても救われないということになります。
 ☆ 《苦も楽も 神によって接せられている世界》です。ただし その接し方や接点は 必ずしも人間には分かりません。要は その人の主観の問題です。それに限られます。



 ★ としたらやはり不条理の渦中にいて、不条理のやるせなさを味わい、苦行だと自覚し覚悟することで、神の世界に近づくことができるという方が納得できるのですけれど…
 ☆ 言ってみれば この世の出来事や文書という文書のすべては 神からの手紙であると捉えてみてください。反面教師もあるでしょうし くだらんものもいくらでもあるはずですが それぞれ何を受け留めるかは やはりその人の主観のもんだいに帰着します。

 不条理を世の中から取り出して見る場合も そういうメールなのでしょう。神からの。
 まさに 本人にはそういう文面が舞い込んで来ているということなのでしょう。

 つまり 要するに そういう場合もどういう場合も メールが来ているのなら すでに神の近くにあなたはいるわけです。だいじょうぶだよ と神は語っているのではないでしょうか。



 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 昔は因果関係がそのまま業(カルマ)と同じだと思ってきましたが、知識が増えるにつれ、善も悪もないというようなことを知りました。因果関係もただの「関係」それ自体に過ぎないとい、また、カルマも実は存在しないという考え方もあります。

 >因果関係から自由

 この状態が何かは分からないのですが…もう少し具体的に説明してくださればさいわいです。
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 ☆ 先ほどの《非思考の庭》についての図式をごらんください。


 思考の緑野〔―→田園が耕され都市が建設されていく〕および感性の原野〔―→この原野においてむしろ 神からのメールを受け取っているのかも知れません。ヒラメキの問題として〕 これらが 経験世界を構成しています。
 因果関係は 経験的な人間の行為および社会関係ならびに自然現象について・つまりは経験世界において 展開するものです。

 《想定》によって成り立っているものですが 《非思考の庭》は これらの言わば《有るか無いか》の世界を超えています。因果関係から自由な庭です。――というような想像と思考とをおよぼしうる庭です。――そういうかたちで この有限な人間にも 多少ともこの世のシガラミから自由な小宇宙があるかに思われる。という問題です。

 マボロシであるかも知れませんし ひょっとしたら 人間も捨てたものではなく そういった言わば神の視点をも 多少ともあたえられている。かも分かりません。

 なにしろ 思考に非ずとして成り立った信じるの庭です。



 カルマのしがらみがあると見ることは そのシガラミから自由な知性をはたらかせることの出来る能力をも 人間は持っている。かも知れない。
 どうお考えでしょうか。