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哲学いろいろ

暴力とは

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

  1. 人間の生まれつき身に備わった自然本性は 身と心とから成ります。
  • 身(身体)は 五感の知覚にかかわり その感情は 心(精神)における悟性をつうじて認識され その概念として記憶されます。概念は 理性によって整理され さらにはあたらしい知覚内容の概念化されたものとの秩序だったあたらしい整理へと送られます。
  • 感性・感情による単独犯行――つまり暴力として――は まれだと考えられます。
  • たとえば何らかの事由で怒ったとします。この《怒り》ということ自体については 感情だけの問題ですが その怒りを――まづ怒りとして認識したあと その概念を――わが身と心との中にどのように整理しておさめておくか(あるいは捨ててしまうか)という話に成り これは理性〔および意志〕のはたらく問題となります。
  • つまり ひとの思惟と行動とは――知覚したあと思考を俟たないでただちに条件反射のごとくおこなう反応をのぞけば―― 感性もすでに理性によって捉えられており すべての認識がワタシの思考および判断として一体となって おこなわれます。
  • 感情による暴力行為というのは 感情という要素にも分析しそれが要因となっていると見て取り出した場合のことだと思います。じっさいには 感性はすでに理性につつみ込まれたかたちでおこなう暴力というひとつの行為がある。こうだと見ます。
  • ただし 忘れてならないことがあります。理性がただいまの怒りとその事情を交通整理して わが思惟と行動としての結論を――意志とともに――くだしたとき じつは感性は その判断について独自にものを言います。
  • 感性は――えらいもので―― 理性が その話し相手に対して よくもおれの考えのマチガイを指摘してくれたなと言ってその自尊心を傷つけられたという事由で 怒りからけんかを吹っかけようと結論づけたとき 〔感性は〕 いや 待てよと再考をうながすことさえあります。
  • 感性が言うには おまえ(マチガイを侵した自分)だって 他人のマチガイを指摘しているではないか。いまのマチガイは 重要な問題についてのマチガイである。おまえ(=自分)が軽はずみで勘違いをしていたに過ぎない。待て 待て。ここは静まれ。・・・というようなことではないでしょうか。
  • プライドを傷つけられたというのは 感情ですが これもつねに理性が出て来て仕切り直す格好になります。つまり 理性の問題に移行します。
  • しかも マチガイがマチガイであるというふうに そのコトじたいに限ったかたちでものごとを捉えるのは 感性です。(理性は そのときの相手や情況やあるいは言ってみれば世界の全体のことを考慮に入れて 交通整理をし考えて行きます)。つまり マチガイがマチガイであることに忠実であり誠実にそのことの処理をおこなおうとするのは 感性です。ウソを言わないと同時に 視野が狭いと言えば狭い。
  • マチガイをマチガイだと知ることは じつは 理性のはたらきによります。感性も直感としては 知っているはずです。理性の認識を承けて 確認するはずです。
  • けれども 理性は そのほかにも自分のプライドなり世間体なりのことをも考慮に入れようとします。感性は おのれのマチガイを放っておかずに 違ったマ(間)の修正をのぞみ そのようなズレのない自然本性なるワレに立ち帰ることを一途に願います。これをないがしろにするのは むしろ理性および意志です。
  • 《本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない》と考えられます。動物がそのチカラを振るう仕方がいかに獰猛であってもです。そしてこのような動物のチカラの発揮は どちらかと言えば 感性に沿った行動であろうと思われます。つまり 感性にしたがう場合には それがいかに獰猛でその結果が残酷なものであったとしても 《暴力》とは言わないのではないでしょうか。
  • もし《感情的な原因》のみによって行動した場合があるとすれば どうか? 怨恨による暴力をともなった犯行といった場合。――いえ そのように《暴力》を振るおうと思ったのは理性および意志です。いかにその前の段階で感性が つよい衝撃を受けたとしてもです。
  • 《カアッとなって》犯行におよぶというのは 《暴力》では必ずしもなく おそらく心神喪失の状態から体を動かしたというような事例ではないか。(暴力に入れられていますが)。感性は おろかですが 純情なのではないでしょうか。
  • 《感情と理性との違いには 時間差がある》と言われる。この《理性へと移行するための時間差》がない場合が 《カアッとなっての行動》ではないか。そして 時間差があると 《カアッとなった状態》を脱しているからには 理性による暴力行為が画策されている。のではないか?
  • 理性による暴力の場合には、経済的な損得が原因となることが多いと言われる。―― おそらく 経済的な生活上のことがらが 基礎にあるかと思われます。ただし経済外の政治的な事由がないとは限らない。
  • 政治的なことがらとは 一般にひとに対する支配欲の問題だと考えます。《思うように行動したいがため社会力学じょうのチカラをつけること およびその発揮》です。
  • 男女のあいだの暴力行為やイジメとしてのそれも この政治的な事由によるのではないか。いつしか人への支配欲に自分が支配されてそれをすでに自己正当化しており(たとえば いまの世の中では これくらいのズルイことをしなければ生きて行けないのだという理由づけ) あとはその理性の考えつくことを理性のおもむくままに実行する。(感情がおのれの好きなことを思いつくという要素もともなわれているはずだけれど)。
  • 経済的な要因がからむ場合も 暴力行為におよぶというのは 支配欲としての政治的な要因に収斂するようにさえ考えられます。支配欲という感情も 政治という理性のはたらく場の中に取り込まれて行っているはずです。