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哲学いろいろ

カイン

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

たとえばこれまでの《カイン観》としては 次のようなものがあります。ここでは これらに異を唱えていることになります。

 ▼ (マタイ福音 23章 35節) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 こうして(省略)、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。

   * 正しい人アベル:この規定が 単純に一般性を持つということに
           反対します。

 ▲ (伝パウロヘブライ人への手紙 11章 4節) 〜〜〜〜〜〜
 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。
 神が彼の献げ物を認められたからです。
 アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。

   * 信仰によって正しい者:これは どこでも・いつでも成り立つ普遍
         的な命題です。ただしだからと言って 必ずしも人となり
         やその性格やあるいはそのときの動機やについて明らかで
         ないことについて 簡単にあてはめることは出来ないと考
         えます。
          あるいはつまり 普遍的なことですから あてはめても
         よいわけですが あてはめたからと言って それがつねに
         具体的にどういう意味を持つか これは 一概に決められ
         ません。
          つまり 解釈としての預言には ただちには ならない
         ことになります。異言のままにおける判断にとどまります。

 ▼ (ヨハネの手紙一 3章 11〜12)  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
 
     * カインは 行ないがわるい:これは 結果から見ての話です。
          どうわるかったのか? 知り得ないで判断を持ってしまっ
          ているかと考えます。
           つまりもしくは 信仰論からの大ナタがふるわれただけ
          だと考えます。

 ■ (アウグスティヌス:カインをめぐって) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E5%8F%B2
 
 § 4 アウグスティヌス普遍史

 古代的な普遍史は、アウグスティヌス(354年 - 430年)の著作『神の国』にて完成された。
 彼は、歴史とは原罪を背負い死を免れなくなった人類が、神の導きに従いつつ正しい発展を遂げ、改めて永遠の平和が実現した「神の国」に生きるまでの道筋という意味づけを行った。これは「救済史観」と呼ばれる。

 この救済史観についてアウグスティヌスは、アベルとその子孫に始まる神の愛に基づく「神の国」と、弟を殺したカインに始まる欲や傲慢などに支配される自己愛に基づく「地上の国」の二つの原理が混在しせめぎ合いながら過去の歴史は刻まれたという論を展開した。

     * これについては つづけて次に引用枠の外でコメントします。
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 ☆ これらの見解にことごとく異を唱えようとするものですが なかでアウグスティヌスの見解との関連では 次のように考えます。

 ▽ 《神の国》と《地上の国》とは互いに――人びとがこの地上の国にあるかたちにおいて――入り組んでおり それらの国境が決して――人間の眼には――さだかではない。

 ▽ すなわちふたつの国は アベルにも欲望があり得るだろうし カインにも神への愛が消えてしまったのではないと考えられるごとく 地上の国では(つまり 人びとにとっては)よいところもわるいところも相いたずさえており 〔ふたつの国は〕互いにからみ合っていると考えられる。――《二つの原理が混在しせめぎ合いながら》に対応する解釈です。

 ▽ ゆくゆくは救済が成り平和がおとづれるかたちで《すくわれる》というよりは そうではなく いま現在においてすでに神の愛はそそがれておりあまねく存在しはたらいており この永遠の現在こそが わたしと世界とのすべてである。――ということを カインの物語は語っているのではないか。


      *

 なお 趣旨説明欄における《顔を伏せる=顔が落ちた》という表現の現実性については なお保ちたいと考えます。有効として留保します。

 というのは なにせコトがひとごろしなのですから その重みということがあります。その重みをしっかりとこの表現で――それがたとえ哲学の理論によりは 文学上の表現のチカラにかかわるものであったとしても―― じゅうぶんに伝えたいところを伝えている。と考えられます。

 つまり カインはかれがどういう人間でどんなキャラクターだったのかまた動機は何だったのかが明らかにならなくても その行為の重大さについては 聖書記者ははっきりしっかりと表現しておきたかった。のだと考えられ それは成功しているのではないかと思われます。《弟のアベルをあやめてしまって カインは 顔が落ちた》のです。