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哲学いろいろ

二人の<反神学>的思想家

――ハイデガーにとってのオーヴァーベックの位置――
香川 哲夫

無神論的」といっても、唯物論やそのたぐいの理論の意味においてではない。自分の何たるかについて自らわきまえている哲学はみな、生の釈意の事実的な様態である以上、神について何らかの「予感」をまだもっているかぎり、哲学によって遂行される生の自己帰還が、宗教的に見れば、神に対して手向かうことであるのを知っておらねばならない。しかしまたそうしてこそ、哲学は誠実に、すなわち哲学たるかぎりにおいて能く駆使しうる可能性に即して、神の前に立つことになる。無神論的というのは、ここでは宗教をもっぱら論評するだけの安易な配慮には手を染めない、の謂いである。だいたい宗教哲学という発想自体、とりわけそれが人間の事実性を度外視するとなれば、全くの不条理ではあるまいか。12


神学者E・トゥルンアイゼンの講演において、ハイデガーは、その講演を賞賛するマールブルク神学のメンバーに冷水を浴びせかけるかのようにオーヴァーベックの名前を挙げ、次のような発言をしたという。すなわち、「信仰へと呼びかけ、信仰のうちに留めておくことができるような言葉を探すことが、神学が再び向かわなければならない真の課題です」、と14。このように初期ハイデガーにおける「方法的無神論」の根底には、オーヴァーベックの思想を真摯に受け止めた、神学の存立基盤に対する深い疑いが存していた。



オーヴァーベックの思想に接したハイデガーは、哲学における原理的な無神論をいうようになった。このことは、ハイデガーが個人としてキリスト教信仰を放棄したことを表しているわけでは決してない。むしろそれはオーヴァーベックの思想を真剣に受け止めた結果である。存在そのものへの問いを生涯の課題としたハイデガーにとって、その内部で神を語らないことは、彼なりのキリスト教信仰への誠実さの表明であったといえよう。



オーヴァーベックの思想を終生忘れなかったハイデガーは、哲学における「原理的な無神論」を破棄してゆく後期思想にお
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いて、いわばオーヴァーベックの後を継ぎ、真の意味での神学(神についての語りtheo-logos)を実現しようとしたのだ、と推定してもあながち強引ではないだろう。しかしハイデガーの<神学>は、ニーチェにおける「神の死」と、ヘルダーリンの詩における「神の不在」という二つの基礎経験への傾倒によってひずみを来たしたと言わねばならない。その結果オーヴァーベックが理想とし、初期フライブルク期のハイデガーが自らの「宗教現象学」で主題化した、原始キリスト教の共同体におけるラディカルな終末待望における生という信仰の祖型の方が、かえって背景に後退する結果となったのである。