caguirofie

哲学いろいろ

感性は 理性よりもえらい。

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie


まづ 定義から入ります。

 序
 《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。

 ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。
 
 ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。



 1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。

 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。

 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。
 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8−1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9−1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9−2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9−3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9−4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

     *

 さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。


 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。

 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。

 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。

 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。

 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。

 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。

 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。

 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。

或る回答

理性をとことんまで追求して、習熟し
我が物とすれば、それは感性に昇華します。
これが本当に、理解する、ということです。

哲学を本当に理解している日本人は殆ど
いない、という意味はこういうことです。

哲学はキリスト教と密接に関係していますが、
キリスト教徒でない日本人は、理性では哲学を
理解できても、それが感性にまで昇華できない
のです。


理性が感性にまで昇華すれば、それは
論語に云う

『七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず』

に、なる訳です。

返答


 総じて受け取ったところを言葉にしますと 定義に示しました《境地》としてお答えをいただいた。こうなると思います。

 そうですね。ですから 
 ★ 〜〜〜〜
 哲学はキリスト教と密接に関係していますが、
 キリスト教徒でない日本人は、理性では哲学を
 理解できても、それが感性にまで昇華できない
 のです。
 〜〜〜〜〜
 ☆ の言葉どおりにと言いますか 何しろ《境地とか境涯》のことですから なかなか一般には言葉としてその中身がさらに明らかになるというのは むつかしいところがある。こういうことかも分かりません。


 そうですね。わたしが分かっているかどうか そのことも問題になりましょうが いまここでさらに話を推し進めることが出来るとすれば たとえば 次のご見解に対していくらか違った見方をぶつけてみることでしょうか。
 ★ 〜〜〜
 理性をとことんまで追求して、習熟し
 我が物とすれば、それは感性に昇華します。

 これが本当に、理解する、ということです。
 〜〜〜〜〜〜
 ☆ とのご説明が示されたことに対して 質問者としましては ゲリラ戦のごとく次のように言ってみることではないかと考えます。

 ○ (感性派の自己弁明) 〜〜〜
 理性によるものごとの理解・習熟の暁に 感性への昇華が得られるというよりは そういうよりは 感性はすでに理性によるものごとの問い求めの初めにそれに先行して 答えを出している。

 この感性のハタラキについて 理性も意志も耳を澄まして見逃さないようにしなければならない。

 そしてたぶん 理性がその自己の試練の果てに感性にまで昇華するというのは おそらく《境地》の問題であって そのときには《理性と感性とが それとして 一体となっている状態》であるのだろう。

 おそらく《身と心》は自然本性として初めから一体であるのであって その一体なるひとりの存在である《わたし》として 感性も理性もそれぞれおのがハタラキをもって《わたし》の自己表現に貢献し合うことが肝心である。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 


 次のように言うと ナショナリストと受け取られては困りますが 
 ★ 哲学を本当に理解している日本人は殆どいない、という意味はこういうことです。
 ☆ という見方が示されるとき ですから 日本や クリスチアニズムの西欧やあるいはコンフュシアニズムの中国といった地域の差異にかかわらず

 ○ 哲学や理性を超えたところで 《もののあはれを知る》 

 といった・先行する感性から出発するものの見方は すでにどの国でもおこなわれており それとしての知恵のかたちで 生活態度となっている。つまり 理性は境地にまで昇華し終えている。はずである。
 それなのに 人間存在ならその存在論として要素に還元してしまって ああだこうだとあらためて議論し始めてしまった。
 と総括しておけば 済むということになりませんか?

 

 そして この質問の実際としましては とにもかくにも 理性だ自我だ自律だという教科書流儀の文章の氾濫に嫌気がさしています。そのような愚痴からの設問です。一向に局地的なものとは言え洪水が引いて行きません。そのような情況観です。
 ありがとうございました。