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哲学いろいろ

Q:狂える人 と その制裁

Q:狂える人 と その制裁

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5303135.html
可哀想だから放っておこうという貴重なご意見に反して、狂へる人のあるブログが悪口目的の引用に溢れた著作権違反であるよしgoo管理サイドへ制裁処分を促したのですが、思えば、狂へる人には制裁は何の意味もなさないのではないか。なぜなら制裁されたことを恥じる日が来ないし、狂っていると知る日も来ないだろうし、信念のように後生大事に自分の観念をひきずって墓に入るだけなんだろうと思うからです。
狂へる人にとっては、gooから排斥されることは主観的にどういう事態であると考えられますか? 権力・運営組織による制裁に意味はありますか? 語弊を恐れずに言えばそれはただの清掃みたいなものなのでしょうか?
人権派の方のご回答を歓迎いたします。

  • 人になれなかった人をめぐる考え方の相互披露であり 情報交換です。

bragelonne

ご返答をもらいました。〔註:この意味がわからない。分からなくなっている。これが 初めての投稿であるようなのに〕


 ★ 「どんな人:経験者」。ご回答はいただけないんですか。
 ☆ わたしの考えはこうです。
 1. 《狂う / 制裁》という言葉を出したところで いわば後ろ向きの計らいになっていると考えます。
 2. 規約などの問題でしたら それに従って処置した時点で もう終わりです。特に何もつけ加えることもないと思います。
 3. あたかもその人物を扱うというかのように その人の行動について論難するのであれば これは 息の長い作業になります。一つや三つあるいは五個や十個の質問での質疑応答を経たところで 解決には程遠いということではないでしょうか。
 4. 問題点を整理し 言い分を対照させて一つひとつ積み重ねていく根気のいる対話になると思います。

 ★ 狂へる人にとっては、gooから排斥されることは主観的にどういう事態であると考えられますか?
 ☆ 《狂える人にとって》も ふつうの人にとっての視点や考え方と同じとするのがよいと考えます。
 わたしは一度《 goo から排斥され》た者です。口論や議論をしたという廉が挙げられていました。《規約違反の投稿があれば 自分では何も処理せずに 通報されたし》との注意をもらっています。
 ともかく ふつうの人間として対処するという姿勢で来ています。ふつうでない行動に出る人びとは 全体の三分の一はいると思ったほうがよいと思います。気長に それでもふつうの人たちであるとして接するという意味です。
 規約上の処置を別にすれば そういう態度ですすむしかないと考えますが どうでしょう。

投稿日時 - 2009-09-25 23:12:50

お礼
あらためましてはじめまして。ご挨拶をありがとうございました。
後ろ向きの計らいになっているということは前向きにすると、仰っておられるようなふつうの人として《ふつう/制裁》という問題で扱えるとの考えですね。
念のため言うと一般論の質問ですから変な回答はどうか気にしないでください。さきほど刑務所のお話を回答で頂いたのが興味深かったです。制裁には応酬刑と目的刑とあって、また更生や矯正ということでは人権尊重のようでも制度側の弾圧にも利用でき、難しい問題だと思いました。
アパートで発狂している人(言葉がお好みでなくてすみません)が車に傷を付けた等を巡査に通報したとしますと、まあ、叱ってくれそうではありますが、たとえ簡易裁判の決定事項とか弁償金とかが発生してもその通りに運ぶかどうかは怪しいわけです。制裁は事実上意味がないと思うんです。あとは巡査が以後しばしば声をかけるなど地域で誤魔化し誤魔化し扱っていくことの中に何か意味があるはずです。
しかしこれがインターネットサービスのgooのような所だと、注意勧告と排斥の清掃作業みたいでそのような制裁は本人にはやっぱり意味がないし、本人の存在の仕方としても移動する埃の玉みたいになって、自分が何者か、そこで何をしているのか、そういうものが益々無くなるばかりなんじゃないかと思うんです。
そういう質問なんですが、出だしの一行ばかり気になる人がいるらしくてまあご覧の感じです。
投稿日時 - 2009-09-26 02:09:13

bragelonne

おっしゃっています。
 ★ (No.26お礼欄)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 しかしこれがインターネットサービスのgooのような所だと、注意勧告と排斥の清掃作業みたいでそのような制裁は本人にはやっぱり意味がないし、本人の存在の仕方としても移動する埃の玉みたいになって、自分が何者か、そこで何をしているのか、そういうものが益々無くなるばかりなんじゃないかと思うんです。
 そういう質問なんですが、・・・
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 《埃の玉》の表現は別にしても この問題をわたしも取り上げて来ました。同じと言っていいでしょう。
 以前から間接的には こういった問題をこそ集中的に取り上げてきたのですが 最近の三件はつぎのようです。みなさんも奮って回答を寄せてくれていますが わたしもなかなか解決に到らないままではあります。が その趣旨説明だけでも読んでみてください。わたしの回答の方向を述べていると思いますので。

 【Q:観念の放射線について】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5269710.html
 ○ (その趣旨説明)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 あるいは 意識の排泄について 問います。

 煮詰めたところ いまの究極の問いはこうです。
 (α) こののっぺらぼうの涎(よだれ)の如き垂れ流しに対して われわれは あたかも(つまりただの文学的な表現ですが)悪魔と手を組んだかたちででも 対処すべきなのでしょうか?

 理性的なひとつの対処法としては
 (β) わたしたちの発言について――たとえばここでの投稿について―― 索引をきちんとつくり つくるだけではなく ちゃんと活用する。そうすれば 自己矛盾を明らかにし得て その乗り越えを提案していける。

 たぶん この合理的な方策は  どうも日本人には通用しないでしょう。のっぺらぼうだからです。何でもありだからです。
 先の非合理的な方策(α)というのはさらに具体的には――なおも文学的な比喩の表現ですが―― その意識の排泄者に対してとことん相手になってやるという意味です。去る者も追うという意味です。ともに地獄に到ろうとも その相手が 自己矛盾の乗り越えを果たすまで同道するということになります。
 いわば放射されてくる観念の政治学に対して こちらはそのデーモン作用をも飲み込んだかたちで悪魔と手をたづさえてでも そのような精神の政治学においてどこまでも相手になってつきあうという行き方です。
 この日本のブラックホールは どうにかならないでしょうかねぇ。
 ○ (そのNo.2補足欄)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 人は
 ★ 全ての悩みからの解放
 ☆ が成った存在として しかも同時に 全ての悩みを背負い得る存在として 生まれて来ます。

 あなたの悩みは すべて 過去の人びとや周囲の人びとの悩みを――なぜなら 人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになります そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。

 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いることでしょう。その悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようになります。
 そこで人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)》となってのように 引き受けるわけです。すでに癒されたからです。ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。うつくしく言えば ごみ清浄化再活性化工場です。

 この現状 この動態としての過程 これで すでに完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html
 ○ (その趣旨説明) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 この原則(α)についてさらに詳しい中身を問い求めます。

 まづなぜ 疑いが生じるかと言えば
 (β) 九十九匹よりも一匹を〔優先させるべし〕。
 ☆ というのも もう一方の原則であるからです。《去って行った者》が この《迷える一匹》にあたるならば どうするか? です。

 ここで妥協案を示すなら こうです。
 (γ‐1) まづその条件を決めます。相対的にして時間的な問題を扱うという条件です。――ということは 哲学としてというよりは すでに具体的な政策として考えるということになるのだと思います。
 (γ‐2) この条件の具体的な内容は こうです。社会にあって (β)の原則を実践するひとたちが 三分の一を占め これに次の三分の一が共感し あとの三分の一は お呼びでないひとたちが占める。この状態を目指すという条件です。
 (γ‐3) すなわち最後の《お呼びでない三分の一》は (α)の《去って行った者》であるから (β)の《迷える羊として われわれが探すべき一匹》には入らないという考え方になります。

 ☆ この(γ)の妥協案について吟味し ふるってご見解をおしえてください。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 【Q:関係の絶対性】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5311248.html
 ☆ これは いまも進行中です。

 やや横着な投稿の仕方ですが あしからずご了承いただけるとありがたいです。

投稿日時 - 2009-09-26 13:17:02

お礼 正直に言ってほとんど文明論のようで私には高尚すぎわかりません。非常に難解です。問題が似ているかどうかよくわかりません。仰るようなのっぺらぼうの涎垂れ流しのブラックホール的なのが日本なのだとすれば、私ならそれは事なかれ主義のサービス社会の受け身に生きざるを得ない状況のことだと解釈します。社会が金銭的な統括のしやすさの方に傾いているのだと思います。
99匹と1匹の話では価値観として全体主義は避けながら同感や共感を持っていればいいんじゃないかと思いますが、では狂へる人というのは迷える1匹なのかというとそういう問題でもない気がして、やはり「統括サイド」の精神として「統括の範疇で迷える」1匹を探しに行くことになるんじゃないでしょうか。
それはそれとして悪魔のことはよくわかりませんが、金銭と時間を費やせば主体性の無いまま権利が与えられ、統括に不具合を引き起こせば主体性の無いまま権利を剥奪され、それが真剣な意味での主体的個の保証であるような権利の剥奪ではないわけだからサービスを利用しさえすればサービスに付随する権利がまた与えられるって仕組みが、社会全体に蔓延しているのが悪魔的だとは思います。
投稿日時 - 2009-09-28 01:13:31

bragelonne

前回は要領を得ない文章のままになってしまい おわづらわせ申しました。ていねいにご返事をいただき恐縮しています。ありがとうございます。

 これといった解決策を持っているわけではありませんので これ以上長居は無用かと思います。自粛せざるを得ないと思います。いただいたご返事へのわたしの反応をつづります。

 《文明論》――というわけのものでも ねらいとしては なかったのですが――に対しては 文明論にてお応えをいただき どうしたものかと思案します。
 ★ 99匹と1匹の話では価値観として全体主義は避けながら同感や共感を持っていればいいんじゃないかと思いますが、
 ☆ というときの《同感や共感を持》つというのは 何に対してなのか? どういう《価値観》についてなのか? これは のちほどに触れておられるところの
 ★ 真剣な意味での主体的個
 ☆ の思想についてなのでしょうか?

 もしそうでしたら こう考えられるのではないでしょうか? つまり
 ○ 九十九匹に対する一匹も あるいは《狂えるひと》も 基本的かつ一般的には この《真剣な意味での主体的個》であると まづははっきり誰もが公言することから 何事も始まる。
 ☆ のではないでしょうか? 
 この出発点ないし原点に立って――と言いますか この原点が すでに動態であるでしょうから その原点を根気よく前へ前へと推し進めながら―― あゆむほかに道はないように思います。
 
 とは言うものの 現実の実態は これまた日本なら日本の社会に特有の事情や情況があるとおっしゃっているのかも知れません。
 ★ 事なかれ主義のサービス社会 / 〔その〕社会が金銭的な統括のしやすさの方に傾いている
 ☆ という問題があるのだと。さらにご指摘は続いているのですが この点に関しましては 次のお考えは じつはわたしの考えの中では 重要な位置を占めていません。(重要ではないという意味ではなく いづれも重要なのですが 焦点の置き方としてです)。
 ★ やはり「統括サイド」の精神として「統括の範疇で迷える」1匹を探しに行くことになるんじゃないでしょうか。
 ☆ 組織とそれにともなう規範や規約 これによる《統括》をおっしゃっているのだと思いますが この手の処理は別に措いておいてわたしは考えております。という意味は 初めに申した原点にかかわる原則論だけだということにもなるのですが。

 日本社会論のつづきとしまして 次のような厄介な問題を指摘しておられます。
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 それはそれとして悪魔のことはよくわかりませんが、金銭と時間を費やせば主体性の無いまま権利が与えられ、統括に不具合を引き起こせば主体性の無いまま権利を剥奪され、それが真剣な意味での主体的個の保証であるような権利の剥奪ではないわけだからサービスを利用しさえすればサービスに付随する権利がまた与えられるって仕組みが、社会全体に蔓延しているのが悪魔的だとは思います。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ これは これこそ
 ★ 仰るようなのっぺらぼうの涎垂れ流しのブラックホール的なのが日本なのだとすれば、
 ☆ になると考えます。ただ それもそれとして或る種の仕方で機能していますので 要は――もしくは突破口としては―― おっしゃるように
 ★ 真剣な意味での主体的個
 ☆ から入って行くのがよいと考えます。つまりは 最初の《動く原点》に行き着きますという我田引水です。

 最後にひとつ具体的な論点です。
 ★ (質問趣旨) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 なぜなら制裁されたことを恥じる日が来ないし、狂っていると知る日も来ないだろうし、信念のように後生大事に自分の観念をひきずって墓に入るだけなんだろうと思うからです。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ という思いを抱くとき ではどのようにその相手にはたらきかけるかの問題です。
 ○ わたしが自分について《真剣な意味での主体的個》であると自認するとき その相手も存在としては 同じであると認めざるを得ません。まったく同じであると明確に公言せざるを得ません。(さもなければ その人は じんるいではないと証明しなければなりません)。

 ☆ さすればどうするか?
 ○ 自分を愛するのと同じ程度までは 相手を存在として愛さざるを得ない。
 ○ なら 煮詰めた段階での話として 《制裁》に頼ることはかなわない。制裁は最終の手段ではない。
 ○ もしくは その考えを嫌って 意味のない結果に終わるとしても《制裁》しかないと言うのであれば その相手の非が 程度問題ではなく 人間存在を損なうという内容を持つ間違いであると証明しなければならない。
 ☆ と考えられてくると思うのですが どうでしょう? (そのひとが人間でなくなったと最終の判断として言うのも証明するのも むりですよね?)

投稿日時 - 2009-09-28 10:29:53

補足
〜99匹と1匹の話〜
これについて私は何を優先させるかという程度の話に考えております。羊飼いがもし99匹をさっさと連れ帰るならそれは日暮れ前に仕事をチャッチャッと片付けたいからでそういう一日の終わりになるだろうし、もし迷える1匹を探しに行くと決めたなら決めた以上は99匹が狼などによって地獄を見たとしても救ってやった1匹を連れて帰って仕事を終えたことに後悔はしないってことです。でもこれは先生や親や管理職などの統括の立場の者が言うことで、羊の分際で言うようなことじゃないでしょう。羊の分際では「一人は皆の為に 皆は一人の為に」しか私にはわかりません。同感したり共感したりという想像力とそして出来るだけの行動力を持とうということだと思います。

狂へる人というのは想像力がおかしいと思います。そしてこれはとても重大な問題です。想像力が故障していて、通念を育むことも出来ず他者の考えへの同感や共感を持てないんだろうと思います。そうしたら、主体的個に与っている存在だと言えるんでしょうか。主体や個なんて通念や同感や共感の上でやっと仮置きされているようなものではないですか。もっと言えば、言葉の生きている心というものがわからないなら主体的個であることなんか出来ないと言いたくなります。
「僕の代わりにトイレ行ってウンコしてきてや」と言われて本当にトイレに行こうとしたり何を言ってると怒りだしたりする人を考えてみてください。言われた言葉に裏や表がある等の問題ではなく、存在をあべこべにする自我の遊びだということが理解できないから、きょとんとしたり怒ったりするんでしょう。「相手≠自分」のブレない確固とした芯がたぶん無いんです。言葉の心を受け止めて相手の持っているブレなさに共感することができず、主体的個であることもできないように思います。

〜具体的な論点
○ わたしが自分について《真剣な意味での主体的個》であると自認するとき その相手も存在としては 同じであると認めざるを得ません。まったく同じであると明確に公言せざるを得ません。(さもなければ その人は じんるいではないと証明しなければなりません)。
○ 自分を愛するのと同じ程度までは 相手を存在として愛さざるを得ない。
○ なら 煮詰めた段階での話として 《制裁》に頼ることはかなわない。制裁は最終の手段ではない。
○ もしくは その考えを嫌って 意味のない結果に終わるとしても《制裁》しかないと言うのであれば その相手の非が 程度問題ではなく 人間存在を損なうという内容を持つ間違いであると証明しなければならない。

愛することや愛されることを理解し社会や他者との関係を通して人間は主体的個になれるのではないのでしょうか。つまりいろいろな保証の上で成り立つ形ではないでしょうか。そうだとしても、狂へる人にも主体を保証しているものごとが様々にあることでしょう。そして誰でもそれを瓦解させないように生きているんでしょうね。仰る論点で制裁というと実社会の裁判を考えることになるんじゃないかと思います。人は人を裁けないという問題です。
現実問題として理解力のある人間は裁かれる社会ですが、法は反省や学びを織り込んで作られ、また反省や学びの程度を予見して執行されますよね。狂へる人が理解力のない人であれば、赴く先や請負う手に委ねられるんだろうと思います。
デジタル管理は理解力の有無にかかわらずあらゆる人に制度上の措置をとりますが、「意味のない結果に終わるとしても」そうするしかないんでしょうか。仮構には仮構としての人間存在の定義をもって「人間存在を損なう内容」というものが発生するような気がするんですが、けっこう難しい問題なんです。
投稿日時 - 2009-09-30 01:07:44


お礼 ありがとうございました。
投稿日時 - 2009-09-30 01:09:15

bragelonne

★ 〔仮構には仮構としての人間存在の定義をもって「人間存在を損なう内容」というものが発生するような気がするんですが、〕けっこう難しい問題なんです。
 ☆ ということで 問題を人間観一般や日本人論に拡げてさらにこの質疑応答を進めるかどうかだと考えます。どうしましょうか?

 とりあえずお尋ねのあった件についてお応えしてまいります。
 わたしがすでに初めに
 ☆☆ (No.26) 2. 規約などの問題でしたら それに従って処置した時点で もう終わりです。特に何もつけ加えることもないと思います。
 ☆ とお事割りした点です。次のふたつの文は 互いの関係としてややあいまいに感じます。
 ★(あ) 狂へる人が理解力のない人であれば、赴く先や請負う手に委ねられるんだろうと思います。
 ★(い) デジタル管理は理解力の有無にかかわらずあらゆる人に制度上の措置をとりますが、「意味のない結果に終わるとしても」そうするしかないんでしょうか。
 ☆ わたしの考えは 決まっています。規則や法律はその規定にしたがって該当するばあいには 処置する。そのほかに(またはその規則の問題を大きくは包んで) 人間のことに関しては 人間としてことに当たる。になります。
 言いかえますと
 ○ 人間のことに関しては 《意味のない結果に終わった》としても 何度もやはり同じ人間として接しつづける。
 ☆ のだと思います。

 * ただしこういうことはあるとも思います。わたしから去って行ったなら わたしはこれを追わない。そのこころは ほかの人がその去って行った人に対して わたしと同じ考えと態度で接する。
 
 ★ 〜99匹と1匹の話〜
 ☆ については わたしの説明に舌足らずがあったようです。じっさいたしかに 
 ★ ・・・でもこれは先生や親や管理職などの統括の立場の者が言うことで、羊の分際で言うようなことじゃないでしょう。
 ☆ とおっしゃるとおりで 《管理》の仕事の問題として扱うものではなかったのでした。それを 《羊飼いと羊の関係》として表現していたので 語弊がありました。
 そしてさらに
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・・・羊の分際では「一人は皆の為に 皆は一人の為に」しか私にはわかりません。同感したり共感したりという想像力とそして出来るだけの行動力を持とうということだと思います。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ というくだりにも同感です。

 その上で やはり問題点はめぐりめぐりやって来ます。
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 狂へる人というのは想像力がおかしいと思います。そしてこれはとても重大な問題です。
 想像力が故障していて、通念を育むことも出来ず他者の考えへの同感や共感を持てないんだろうと思います。そうしたら、主体的個に与っている存在だと言えるんでしょうか。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ まづわたしの第一の反応は こうです。
 ○ 社会的な規則(慣習法)や法律に触れる場合には その規定にもとづき処置する。それ以外は 《狂い》を程度問題として扱い 同じ人間として接する。
 ○ 間や気がおかしいと思っていても 必要で適切なときと場合のほかは 言わない。おかしいと分かっているのですが ふつうの人間として接する。
 ○ たぶん信頼関係が築けたと思うなら 面と向かって《これこれの点で 間が抜けているではないか》とはっきり言うとも思います。

 第二段階としましては こうです。
 ○ 対話をつづける。とことん続ける。
 ○ そのときには 一つひとつ主題を決めるとよい。あるいは 何か共同でおこなう仕事をつくるとよい。
 ○ あとは 気長。気長。三四がなくてもやはり気長。

 ★ 「相手≠自分」のブレない確固とした芯がたぶん無いんです。言葉の心を受け止めて相手の持っているブレなさに共感することができず、主体的個であることもできないように思います。
 ☆ このような日本人の状態については わたしも次のようにここで問うて来ています。
 
 【Q:日本人は 死んでいるのでしょうか】
 【Q:日本人は 人間ではないでしょうか】
 【Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。】
 【Q:《絶対》の概念をなぜ日本人は理解したという姿勢を見せないのでしょう?】 
 【Q:日本は《マインドコントロール社会》でしょうか】
 【Q:日本人は生ぬるいですか】
 【Q:日本人は 死んだのでしょうか】
 【Q:あなたの抱く《これぞ 日本人》をおしえてください】
 【Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか】
 
 ほかのみなさんも もし関心がおありでしたら ちらっと見てみてください。そこから新たな問いが持ち上がるかも知れません。という意味でいくつか挙げました。
 要は 前向きかつ気長でいつづけることではないでしょうか? これといった解決策はむつかしいのでしょうね。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-09-30 13:56:32

補足
どうしましょうか?ということなんですが、質問はネットコミュニケーションのサービスの中に特定したことで、人々を一律に遇するサーバー側は人間対象であれ日本人対象であれ狂へる人にどう振る舞うことができるかというものです。拡げるより狭めたいところなので拡がりつつあるならこのあたりで打ち止めですね。
(あ)は実地の裁判に続く措置であり(い)はネット内の措置ですが、「人間のことに関しては 何度もやはり同じ人間として接しつづける」は同意致します。その上で《ネットの中の人間とは何だろう》に遡って考えなくてはならないことがありはしないだろうか、と思いました。なので人間存在を論じる経験や知識ではなくネットを論じる経験や知識が待たれるんですが、それはそれとして人間の対面ということを考えるなら
「第一の反応」と「第二段階」は納得致します。また、それが可能な間柄と信頼関係の存在を前提にすれば成立可能であると思います。日本シリーズの問いかけは意義深い仕事ですね。参照させていただきます。
投稿日時 - 2009-10-02 21:45:03
お礼 たびたびご回答賜り大変ありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-03 00:13:32

bragelonne

ご返答をいただきありがとうございます。
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 質問はネットコミュニケーションのサービスの中に特定したことで、人々を一律に遇するサーバー側は人間対象であれ日本人対象であれ狂へる人にどう振る舞うことができるかというものです。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ この《サーバー側》のことは 規約にもとづき処理していくことになると思いますので もうあまりつけ加えることもないのです。
 そしてその前にも まづわたしは 自分の質問【Q:関係の絶対性】でのやり取りの中で この《関係の絶対性》と《前向きかつ気長》の原則をこのたび破りました。回答者のひとりを《おまえには飽き飽きした》と言ってしりぞけました。このご報告をもって 引きさがるべきかと思います。

 ★ 《ネットの中の人間とは何だろう》に遡って考えなくてはならないことがありはしないだろうか
 ☆ について考えつつ 上のふるまいについて説明する機会を与えられるものならば 少し言い添えたいと思います。

 ★ ネットの中の人間
 ☆ は基本的に 人間一般と同じだと考えます。面と向かって話ができるものではないということ したがって応答は時間差もあるということ こういった条件のちがいだけではないでしょうか。
 しかもわたしは 先の一回答者との訣別宣言では このように一人の人間ともう一人の人間とのふつうの関係として ただただ感情において気持ちわるいという理由のみによって 相手をしりぞけました。
 それが 最も良いかたちだと思ったからです。それが もっともよく《関係の絶対性》にもとづく行動だと考えたからです。理屈や理論には一切よらないで 感情のみによって絶交を宣言しました。それが 《関係の絶対性》という理論の実際の内容だと思ったからです。
 あるいはまた
 ☆☆ (No.36) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  * ただしこういうことはあるとも思います。わたしから去って行ったなら わたしはこれを追わない。そのこころは ほかの人がその去って行った人に対して わたしと同じ考えと態度で接する。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ の問題に通じると思ったからです。
 理屈抜きだと言っておきながら 説明をしていますが 行動についてあとづけは みっともないかも知れませんが あり得ます。
 《アース役》は放棄したわけではありません。
 ★ (質問趣旨) 清掃
 ☆ とは微妙に違います。たしかにゴミ処理工場ですが その処理に当たって ゴミを――アースのごとく――そのまま受け入れます。ゴミをさらに出してくる相手に対して 言葉を返して対話をつづけます。この作業をつうじて 互いに浄化・再活性化が成ればしめたものです。
 アース役はつづけます。しかもこの人間に対しては いつまでもアース役をつづけるのは ためにならない。どうもそういう人間が現われたようだ。――これが 新しい事態でした。原則を破りました。

 こういうご報告です。言葉の上では RingQ さんとのやり取りで言ってきたことと違った行動をとったわけですから これは裏切りです。つつしんでお伝えするのみです。

投稿日時 - 2009-10-03 09:48:01

補足
〜ネットの中の人間
そう思われますか。文字と文字で向かい合っている相手とのご経験を書かれていると思いますが、私は、人間の感情がネットのような即物的なコトバの世界に本当にフィットしているとは到底思えないです。感情の起伏は大きく激しくネットの言葉の表現力は少なく貧しいですから。
とはいえ「良いかたち」と信じて行動されることの一貫性からは必ず結果が生じると思います。どうあれ一貫したキャラクターとしての誇りはお持ちになって良い筈だと思います。

〜〈質問主旨〉清掃
他の新しい質問でも投稿者の方に問いかけたことなのですが、サイトという場所は参加者の存在を極力消さないでむしろ保証していると思うんです。言葉を綺麗に描き直してやり棘を抜いて化粧を施し、狂へる人の本質を置き去りにして見栄え良いところを舞台に乗せる、というのが清掃めいた感じなんです。仰るような「ゴミを出してくる相手」は清掃理力から偶然こぼれて落ちているんだろうと思いますが、bragelonneさんがアースの労力をかけるとしても、それはサイトが捨てた中骨やカマの部分ではないかと思うんです。ネットサイトでそんな労力の甲斐があるのかどうか私には疑問です。現実と同じ人間同士のことと考えておられるからできるのでしょうね。
投稿日時 - 2009-10-03 16:43:40
お礼 ありがとうございました。
投稿日時 - 2009-10-03 17:15:40