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哲学いろいろ

あうぐすてぃぬす

真理そのものと万物を創られた言葉が どのようにしてわれわれの中に住むために肉となられたかを考えてほしい。


使徒は《たとえこれまでは肉にあってキリストを知っていたとしても これからは知るまい》(コリント後書5:16)と言っている。たしかに神はみもとに到着した者に ご自身を所有することをゆるされるだけではなく 道の出発点にようやく着いたばかりの者にもご自身をあたえようと思われたので 肉のかたちをとることを望まれた。


だから《主はわたしをその道の始めにおいて創られた》(箴言8:22)という言葉も こういうところから言われているのである。それはみもとに到ろうと願う者が そこから歩き始めることができるためである。
 だから使徒はまだ道の途中を歩いているし 《上への召しという賞与をめざし》(ピりピ書3:14)召し給う神のあとを追っている。ただし《うしろのものを忘れ 前のものへと体を伸ばし》(ピりピ書3:13)と追っているが もはや道の始めを通り越している。つまり真理に到達し 永遠の生にとどまりつづけることを願うすべての者が近づいてそこから歩き出さなければならぬ道の始めはパウロにとってもはや必要ではなかった。そこで《わたしは道であり 真理であり 生命である》(ヨハネ福音14:6)と述べられている。これはわたしを通って わたしへと辿り着き わたしの中にとどまりつづけるものとされる ということである。たしかにみ子ご自身のもとに到達したときには 父のみもとにも辿り着いているわけである。それは至高で不変のよきものにとどまらせてくれる聖霊が われわれをあたかも膠でつけるように結びつけるとき 等しいものが等しいものによって知られるからである。
 (《 De doctrina christiana 》1・34〔38〕 加藤武訳)