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2012-09-29 - caguirofie 2012.09.29《最近のコメント》欄での表示がぜんぶは出ないので ここにしるします。
▲(親鸞:末燈抄・三) 〜〜〜〜
信心を得たる人は かならず正定聚(しゃうぢゃうじゅ)のくらゐに住するがゆゑに等正覚(とうしゃうがく)のくらゐと申すなり。
『大無量寿経』には 摂取不捨の利益にさだまるものと正定聚となづけ 『無量寿如来会』には 等正覚と説き給へり。その名こそ変はりたれども 正定聚・等正覚はひとつこころ ひとつくらゐなり。
等正覚というくらゐは 補処(ほしょ)の弥勒とおなじくらゐなり。弥勒と同じく このたび無上覚にいたるべきゆゑに 弥勒と同じと説き給へり。
さて『大無量寿経』には 「次如(しにょ)弥勒」とは申すなり。
弥勒はすでに仏にちかくましませば 弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじくらゐなれば 正定聚の人はみょらいとひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は この身こそあさましき不浄造悪の身なれども こころはすでに如来とひとしければ 如来とひとしと申すこともあるべしとしらせ給へ。
弥勒すでに無上覚にその心さだまりてあるべきにならせ給ふによりて 三会(さんゑ)のあかつきと申すなり。浄土真実のひとも このこころをこころうべきなり。
光明寺の和尚(=善導)の『般舟讃』には 信心の人は その心すでに《つねに浄土に居(こ)す》と釈し給へり。《居(こ)す》といふは 浄土に 信心の人のこころ つねにゐたりといふ心なり。これは弥勒と同じといふことを申すなり。これは 等正覚を弥勒と同じと申すによりて 信心の人は如来とひとしと申すこころなり。
▼(親鸞:唯信抄文意) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
涅槃をば滅度といふ 無為といふ 安楽といふ 常楽といふ 実相といふ 法身といふ 法性といふ 真如といふ 一如といふ 仏性といふ。
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