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哲学いろいろ

無限

 (1) ▼ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点⇒ 無限集合とその部分集合) 〜〜〜〜
  http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html

 この〔* 《無限》においては〕部分と全体との同一という定理は、先ほどの神の受肉という事態を合理的に説明することができます。

 すなわちある無限集合(* =全体)を神の本質、その部分集合を神の実存と解釈すれば、神の本質はその実存と同一でありえます。つまり、神の実存は、神の本質の部分であることによって、神の本質から差異化されると同時に、また同一でもありうるのです。
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 ☆ これは もし妥当であるとしても 説明の中のひとつのことで 用語を間違えて用いています。

 偶数の無限集合といった《部分集合》は 実無限ではありません。可能無限です。《偶数》という思考・認識の対象になっているからです。つまり言いかえると 経験事象に属します。つまり 元を用いて示される神のことではありません。

 (2) ただし もしその全体としての説明が妥当であると考えられるとしたら それは 全体として仮りに経験事象のことがらとして神の世界から神の三位一体説が――つまりは特に子なる神が 肉(=人間)となったという仮説が―― 逆に投影されている。と思える。そこからでしょう。
 神としての実無限である《本質》とそれの投影としての可能無限版と言うべきような《実存》という区別で説明されているそのゆえでしょう。


 (3) けれどもたぶん げんみつに言えば この説明は適宜性に欠けましょう。

 本質=実無限と 実存=可能無限 これらのふたつの《無限》が 互いに差異化されていると同時に互いに同一であると無理に言おうとしているからです。

 ことば(=ロゴス=子なる神)が肉(=人間)となったという場合 それは 何も《実無限たる神が 可能無限のかたちを取る》というよりも そうではなく まづ一面として あくまで――聖霊であることにおいて――実無限のままであるのであり もう一面としては むろんヨセフとマリアというふたりの男女から生まれたふつうの人間であるということ。このふたつの面が 同時に存在するということ。こういう想定で 物語を語っている。
 人間イエスは 神の子でありみづからも神であるキリストである。という物語上の想定です。
 イエス・キリストは 神の貌(かお)と人間の――神に対して言わば《しもべ》の――貌とを同時に持つ。これです。
 これが 三位一体の理論でありましょう。

 (3) ▼ 無限集合にはその大きさの大小があるという定理によって、先ほどの人間の神化という事態は合理的に説明できます。

 ☆ これは 落合仁司がその著書『〈神〉の証明』において ギリシャ正教が説く《神と人間との関係》を カントールの無限論を用いて証明しようとしたものです。
 カントールの《無限集合にはその大きさの大小があるという》その二つ目の定理です。

 ところが
 ▼ 無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。
 ☆ と問うて始める証明は 出来ていないとわたしは考えます。
 あたらしく得られた無理数の集合は 自然数の集合よりも――このときどちらも 無限集合であるのですが―― 濃度において大きいと言っていますが たぶんアヤマリでしょう。
 というのは 自然数からあたらしく無理数を作り出すときに 初めに取り出した自然数の集合が無限であることを忘れていると思われるからです。
 新しく得た無理数が 初めの自然数の集合の中にはないと言うのは 初めの《自然数無理数との対応》のさせ方が すでに《無限》ではないかたちにとどめてしまっている。ことを示すからです。

 いくら可能無限だからと言って どこかで《限り(果て)》があるとしてしまうのは おかしい。経験事象におさまるものであるからと言っても つねに無限大のその先に そのさらに別の数値がある。というのでなければおかしいからです。