caguirofie

哲学いろいろ

クリナメン

 ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?

 なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?

 その心の片向きは 弱さから来るのか?
 思うようにならないことにやけを起こすことからか?
 ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?

 けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。
 おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起こる。
 やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。
 はっきり言えば おのれの死を意志がえらぶ。



 けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。
 愛である。
 社会にあるというその存在の関係性にもとづく愛である。
 おそらく生きることを欲するゆえに 生きることしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見ないことにはできないという愛から である。

 世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。
 なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。
 愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして。