caguirofie

哲学いろいろ

ぶっきらぼうは いただけませんか。

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

回答#42

言語表現における、ぶっきらぼうについて。

受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない)ために、
というのが、わたしのぶっきらぼうの場合の本意ではないかと思います。
自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。
これは自分の視界を奪うことでもあるし、わたしの視線の先を相手に読めなくすることでもあります。
予期依存を回避するともいえるし、視線の先という空間に潜む時間の幅を稀薄にするともいえそうです。


アフォーダンスか、プライミングか、と概念化をもって図法となったツールに依ると、話がわかりやすいかもしれませんが
まあそんならそうした概念を了解していること自体で話が足りる。
その先は議論の質が問題になるので、話す相手と場を選ぶという性質が、いやらしくも浮上して、ぶっきらぼうを扱う話でもなくなります。
せっかくのぶっきらぼうという切り口がアフォーダンスやらプライミングやらの話になります。
たぶんこれがbragelonneさん独特にいうところの最上層構造で、起こる麻痺。


枝ぶりの立派な木の下に人をひきずっていって縄を手渡すというおだやかでない話の、縄のようなものが言葉であると考えてみますか。。。


ぶっきらぼうに渡すわたしは、その人にたいする自分の感情に目をひらかず、
数分先の未来を、わたしとその人のあいだに、具体像として介入させないのかもしれません。
その人が何のつもりでいるか、縄をどうするかということも、わたしには予断がないことで、
ぶっきらぼうに渡されるその人のほうは、わたしの心のあるなしも内容も知ることがないでしょう。


その延長でマルセル・デュシャンの便器のようなものをぶっきらぼうと呼んでみてもよいかと思うわけですが
こういうのはどちらかというと、受け取る側が瞠目することや、
指示が解釈の網に取られて自動的な熟成をはじめることのほうに、関心が行きがちかと思います。


便器のアフォーダンス自体を展示するというような仕方で、繊細な問題を扱っているともいえそうですから
ぶっきらぼうとは、最上層構造の問題としては繊細であり、基底構造の問題としては無骨なのであろうと思います。


愛想というのはかける相手の反応を予期して見越す心境で、予断で対象にゆるく縄をかけるようなものと思います。
人の心に入る言葉を弄すれば、縄はきつくかかります。
暴力の才能を持った人種には、しばしばたいへんな愛想の持ち主がおります。


受け取った言葉の熟成がすすみすぎる傾向の人を相手にするとなれば、
言葉は、言ったことでも2倍3倍になり、言っていないことでも言ったようなことになります。
この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。
こういう傾向にあっては、相手は言葉よりも発語する人物を見ているため、
意味を知りたいのではなく心を知りたいということになります。
木の下に戻れば、縄は縄であるということを知りたいのではなく、
「『わたし』にとっての『あなたにとっての縄』」を知りたい、と。
(相手は自分にとって縄が何であり、どのようにあり、何故あるか、
ということをわたしが指摘できることを望む。占いのトリックである。)
こういうことを伝えることを、愛想 とわたしは考えるわけです。


蛇足ながら、
地雷は起爆があったようですね。
わたしの質問の片隅にある文言から別の質問を着想なさった見知らぬ方に、ここから袖を振って慣れない愛想を実践します。
混乱の中に生きている方がわたしのIDに目を付けて妄想激しく絡んできていたため
( この「混乱」において「加害者(たち)」は時間を超え空間を超えて繋がる。全同一人物化か一味化が常套。
早とちりや勘違いは、繰り返される自己正当化の過程で是正されながら、別の理由に接がれる。
その場しのぎの論理が溢出する。
少なくとも双極性感情障害の症状はみとめられるとわたしは思う、わたしの親切心から言うのですが)
新規参加の方が文体の中に同じ地盤を曳きずっており、文の上でよく似た声であるのをみとめて、
地雷を踏まぬよう避けた次第です。
多少あきらかにされた事情から察するに、声か似ているのは向こうが似たのでしょうかね。
あるいは新規参加者の心に心象映像群のように向こうの声がこだましていたのかもしれません。
声についてはわたしが聞きたいくらいでメカニスムはわかりません。
奇妙な声音はこのへんがあってのこと。謝罪します。奇妙な論理・悪声・取り扱いの難しさは別の話です。
まあ難聴性と弱視性が勝り、自分でも持て余すというような猪突猛進の走りかたをされるわけです。文がです。
ところが、とてもぶっきらぼうな性分であるのに、愛想を忘れない心がけが多角的検討を持ち込むのか、
独我が合わせ鏡の世界のように分裂している。ああでもないこうでもない、つきあうのに骨が折れそうだ、と、そういう話です。
しかし一瞥でしかないのですから (長い投稿を読む時間はあまりないのです) 勝手な言い草でしょう。これも謝罪します。
では。 (あまり愛想がありませんでした。やはりわたしはぶっきらぼうなのです)

投稿日時 - 2009-04-25 02:57:17

[応答]
am-g--p-a さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 わたしなりに要約しつつ復唱してまいります。

 1.一般に 批判が根源的(=人間にとって 不可欠・不可避)であるのに その批判を発信する者が ぶっきらぼうであるという場合を取り上げておられます。(以下 敬語をはぶく無礼をおゆるしください)。つまり そういう場合に
 2.★ 受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない)
 ☆ のが 《ぶっきらぼう》の定義である。

 3.この場合 時には
 ★ 自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。
 ☆ が それは けっきょく《批判としての言葉の行方としての熟成》に やはり自分から 無頓着になることである。


 4.いづれにせよ 《批判内容》には すでに 一般的な妥当性があり 相手にとっても 《意味》がある。《とるべき行為の可能性》を持った意味がある。(アフォーダンス)。しかも その可能性つまり行為の選択肢をえらぶことへと 誘導すると言うべき要素さえある。(プライミング)。
 5.ただし このアフォーダンスないしプライミングの効果は 相手によっては 相手が自分の神経を麻痺させて回避しようとする場合がある。
 6.マヒを起こすにせよそうでないにせよ 相手は その批判を受けて 自分は 枝振りのいい木の下につれて行かれ しかも 縄を渡されたようなものだと受け取る。


 7.しかも ぶっきらぼうは いっさい 《人情のかけらもなく》 ぶっきらぼうである。

 8.同じくしかも ここで 《愛想がある》というのは あたかも《縄をゆるくかける》ようなものである。つまり愛想があったとしても 批判の効果に関しては 同じことを認識している。
 9.ぶっきらぼうは 人間性の問題にかんして《繊細》であり 人情の問題にかんして《無骨》である。

 10.ただし 人情に厚い場合というのは けっきょくその場合も 真綿で首を絞めるというように 《装飾品》売り場につれて行って 好きなものを買い与えつつ 同じ批判を突きつけることである。

 11.いま取り上げている批判の発信という場合には ひとによっては すでに その言葉の問題ではなく つまり言葉を超えた問題として 人格が問われているのだと 〔すでに〕受け取る場合がある。こうなると 一定の問題をめぐっての質疑応答は 人格どうしの格闘の様相を帯びる。

 12.★ この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。――☆ わたし( bragelonne )は まだ 決めかねている。たぶん わたしは そうはしない。放っておく。

 ★ 蛇足
 ☆ 一点 異見を持っています。器質の問題でない場合には いっさい 病気は ない。あり得ない。とわたしは 勝手に 考えています。
 病気というのは 治療者と患者(被治療者)との関係が 社会的に(人びとの主観が共同化されるかたちで その観念として)固定する場合を言います。
 言いかえると 病いや症状というのは――つまりたとえば アマアガリ症候群とかアマテラス予備軍シンドロームといったような場合―― 多少とも すべての人は その情況および個人的な状態の一端を共有しています。その意味で 連帯責任です。また 悪は存在しないです。
 善の欠如とその元の善(自然本性)を わたしたちは 誰もが 共有しており この基礎において 連帯することができます。
 この自由な人間の自由な連帯は ぶっきらぼうでも 実践し得ます。むしろ 愛想は要らないとさえ考えます。


 そうして 本論のほうで 《縄》の意味するところは たしかに《わたしの〈古きひと〉の滅び》ですが むろん同時に 《〈新しきひと〉を着ること》です。だって――というよりも―― すでに あの木の上で わたしたちは 同じように この世の肉(精神および身体)を 欲情や欲望もろとも はりつけにしてしまったからです。
 三日後に復活したそうです。物語のゆたかさと やさしさ。うそのような現実性。


 よっ 千両役者! どこで そんなせりふを覚えてきたんだい? 
投稿日時 - 2009-04-25 09:21:31

このやり取りを読むには 次の《パレーシア》という概念が役立つと思う。それと《ぶっきらぼう》との異同ということです。

ヰキぺ:パレーシア(Parrhesia)

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
 フーコー古代ギリシアのパレーシアの概念を次のように要約している(1983年)。
  「より正確に、パレーシアは話者が自己の真理への個人的な関係を表現し、自らの生命を危険にさらす言葉の活動である。
 なぜなら彼は(自分自身同様に)他人を改善させる、あるいは助けるための義務として真理を語ることを承知しているからである。
 * ( bragelonne 註:これは 真相究明とその公表の問題のようです。→北野舌禍事件)。
 パレーシアの中で、話者は大胆に話し、説得の代わりに率直さを、嘘や沈黙の代わりに真理を、身の安全の代わりに死のリスクを、おべっかの代わりに批評を、利己心と道徳的な無関心の代わりに道徳的な義務を選ぶ」。
 * ( br.註:ここで《真理》は 《こころの真実あるいは真相》の意。《道徳》は われわれの議論では 及びでない。《死のリスク》は あくまで主観の問題)。

《註》をほどこすと 《テクストを消す》と言われかねないところですが われわれの問い求めを 急ぎましょう。要するに
 ○ 《パレーシア》とわれらが《ぶっきらぼう》とは どう違って どう同じか。