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哲学いろいろ

 ▲(ローマ書8:1−17――霊による命) 〜〜〜〜〜〜
 1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
 2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
 3 肉の弱さのために≫律法≪がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
 4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、≫律法≪の要求が満たされるためでした。
 5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
 6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
 7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、≫神の律法≪に従っていないからです。従いえないのです。
 8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
 9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
 10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
 11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
 13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
 14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
 15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
 16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
 17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
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 ☆ すなわち こうでしょうか? 
 《肉の思い》あるいは《必然性の王国》とも言われる《この世のならわし》に対して 倫理規範としての――または社会集団ないし民族宗教の集団にとって戒めとして作用する――モーセの律法(条文)がまさに戒律としてはたらく場合と そうしてさらには《霊》とも言われる《神の律法》が《肉の思いないしこの世の必然性の支配》から自由な状態へとみちびく場合とを示したと。
 モーセの律法も それは罪のあることをおしえるかたちで広くは神の律法ですが その契約の中身を実行する仕方は そのまま聖霊としてはたらく神の律法が必要であった。つまり人は そのまま自分の人間としての力だけではモーセの律法を守ることは出来なかった。
 したがって 肉の思いに対する悩みや苦しみを人が モーセの律法なる倫理規範そのものの支配によって解決しようとする時代も この二千年のあいだ 《神を知れと言っておしえる》行為が始まりそれが果たされたのと同じように 続いていたと見られます。

 この神の律法を ただちにそのまま《愛》と言ってよいかですが たぶん――《聖霊》というはたらきのことでもありましょうから―― 言えるのはないかとは思います。
 たしかにおっしゃるように モーセの律法との区別が必要であり そのことは大切だと思います。


▲コリントの信徒への手紙一 / 9章 20-21節
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。


ローマの信徒への手紙 / 8章 7節

なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。




◆内在する罪の問題
▲(パウロ:内在する罪の問題――ローマ書7:7−25) 〜〜〜
 7 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
 8 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
 9 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
 10 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
 11 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
 12 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
 13 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
 14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
16
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
17
そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
18
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23
わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。