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哲学いろいろ

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

★ なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
 ☆ ふたつの問いに分けます。
 (1) なぜ 何も無い のではないか?
 (2) なぜ 何かがある のか?

 (1)は もともと 何かが有ると人間が捉え人間の言葉で表わしたそのモノ・コト(つまり《何か》)が 空間を移動して もと有ったところには無いようになったか それとも時間を経て朽ちて行き無いようになったかしたに過ぎないのだから 《何も無いのではない》となります。
 つまり 有ったモノ・コトについて それらが無い状態にもなるというに過ぎませんから。

 (2)は そもそもこの認識と言葉による表現が 《何かが有る》というその事態から始まっているということだと思われます。
 その《何かが有る》のは なぜか?
 と問うのであれば 人間はその知解能力では分からないという答えになります。もっと言えば 人間に分かるか分からないか それが分からない。
 ひょっとして人間にも分かるかも知れないというのではなく つまりあるいはひょっとしていつか将来において人間も分かるようになるかも知れないというのではなく そうではなく どこまで行っても 人間には《分かるか分からないかが 分からない》事柄としてあり続けるという意味です。それとしては 分かっていいることになります。

 言いかえると これでもわれわれ人間は そのナゾを 《絶対》という――仮りの・代理の――言葉で表わしています。言いかえると これは どの言語にも持たれている《かみ》という言葉でありそういう代理表現のことです。
 かみが その絶対なる神の ひとつの代理表現にすぎないということは――経験世界における《有る・無い》という相対性における表現であるからには―― 無い神 つまりは無神論の無神 と言いかえても 同じことだとなります。



 重ねて言いかえると この人間の住む経験世界は 《有ると その状態変化としての無い》とがある相対の世界です。
 その経験世界がなぜ有るか? これが 人間には分かるか分からないかが分からないというのが 答えです。


 《なぜ何かがあるのか?》 これに対する答えは 《それが分かるか分からないかが分からない領域――すなわち かみ――》と人間との関係という場にある。
 その場は 経験世界を超えている非経験の領域――つまり かみ――と我れとの関係そのものであり この関係がわれわれの経験思考を超えて ヒラメキ(インスピレーション)において・あるいはつまり非思考の庭として わが心に成るという経験行為そのものであり その動態としてある。
 《分かるか分からないかが分からない》というかたちで 分かっているという意味であり つねに――人の心的現象としては――動いているかたちをしている答えです。
 
 この不安定ないしおそれ――畏れかあるいは恐れか――が 人間の自由というものです。その条件です。存在にとっての所与です。
 人間の存在にとって無条件なる条件です。
 人間は この無根拠なる根拠のもとにあって 生き動き存在する。
 この自由は めぐみである――人間が考えたものでも作ったものでもない――と考えられます。
 このような答えを示したのは のちにキリストと呼ばれたナザレのイエスというひとりの男だったと考えます。