caguirofie

哲学いろいろ

ブッダの証し

 けっきょく 絶対者としての神――これが ブラフマンとしてすでにゴータマ氏の以前に説かれていた――に抵抗し(なぜならその宗教から 人道に反する身分制を現実社会に派生させていた) そして教義としても対抗するものを説いた。

 ただしけっきょくは 主宰神ブラフマンおよびその宇宙霊が人間にも宿るとするところのアートマンを全否定したかたち すなわち徹底的な無神論 であった。アン‐アートマン(無我)説=涅槃論=空観=縁起説・・・。

 ところが 後世になってそこまでの天与の霊感がゴータマくんにさづけられていたのなら それは 宇宙霊にひとしいと捉えられこれは ただし名称を変えて 仏性(如来蔵)と呼ばれた。
 
 アン‐アートマン(無我)説による仏性は アートマンなる宇宙霊とおなじ概念であろうと考えられます。

 古代ギリシャでは 同じく《宇宙の霊魂 プシュケー・コスムー》と呼ぶ神学があり ラテン世界では 《アニマ・ムンディ 世界霊魂》と呼びました。




 近代人は この《神ないし無い神 つまりはそのいづれにしてもの聖霊》を 括弧に入れて経験合理性において経験科学を問うかたちを築きましたが この基本的な態度としての《括弧に入れる》という前提は往々にして忘れ去られたり あるいはぎゃくに無理矢理別のかたちで出し続けたりしつつ来ました。

 科学万能主義になるか それとも 一般に《観念の神》としてただただ想念の内に生き続ける(つまりは 生きていない)かする形式となりました。

 科学は 霊魂といった絶対の領域に対してただ触れるのを禁欲しているに過ぎないという批判つまりは考え直しが持たれていますし あるいは わざわざ〔すでに観念としてあるのみなのだからもともと生きていないのに〕神は死んだと宣言して 観念の神による洗脳(言わば自己洗脳)から脱却しなければならないというかたちも現われました。


 
 ゴータマさんの生きた証しとしては 一方でむしろ仏性説として この宇宙霊が普遍的に人には宿るという通念としてでも受け継がれて来ていましょうし(《罪を憎んで人を憎まず》) 他方ではむろん現代でも無神論を標榜する人びとも少なくなく それはじんるいの歴史上大雑把にはこのブッダの説いた神学の系譜であると考えられます。