ブッダと空海とどちらがえらいか。
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
人間なる存在としてくらべるとすれば それは 誰であっても偉大であり 互いに対等です。すなわち 誰ひとりとして ブッダでない人はいないとなります。
その知恵や知識 あるいは生活態度としての思想 そしてさらには人間の境地ということで比較するとすれば おそらくどっちもどっちでしょう。どんぐりの背比べという意味です。
ゴータマ・ブッダは いわゆる仏性をみづからは説かなかったけれど その中身としては明らかにしようとしたし それとして実践したと思われます。空海が 即身成仏ととなえたとすれば 一にも二にもこの仏性説にもとづくはずです。
仏性――如来蔵の思想――を持ち出して来たのは ブッダの後世の民衆だったかも分かりません。
この民衆こそが偉いとまでは言わないとすれば 誰もが同じように偉大だったのではないでしょうか?
* あるいは ブッダが否定したブラフマニズムにしても その梵我一如の理論は けっきょく――仏性をとおして――実質的には同じものとなっていると言ってよいはずです。有神論と無神論との 形式としての差だけであるようです。この場合の形式とは 名前のつけ方というほどの意味です。
けっきょく無我説として自分が否定したアートマンが 仏性であるとブッダは実際には言っていたことになるようなものです。だとすれば ブラフマンと一体なるアートマンを見つけ出した昔むかしの無名の人びとが偉いということになりませんか?
このように人間の偉さについてどこまでも相対性理論を前提にすることは 一にも二にも ブディズムの趣旨にかなった大切なことではないのでしょうか?民衆の海の中から ひとりふたりを取り出してブッダが偉いとぶつぶつ(**)言ったり いやちがう空海だと言ったりするなら そのブッダや空海らが そういう注意点をはっきり言っておかなかったかなぁと後悔しているのではないですか?
後悔するくらいなら たいして偉くもないでしょう。** ぶつぶつ:これは 仏々とかけている。そのあとで 空海と後悔とをかけている。
*** ブッダや空海が 相対性理論をその基礎においていたとするなら この回答者であるわたしは そのことを見ない人たち――見て知っていても なおその上に偉大さをたたえることだけをしようとする人たち――のことをなじっています。
そのようななじられる信奉者を後世に出すということについて ブッダや空海は 注意を怠らなかったか? 怠ったとすれば やはりそれほど偉大ではなかったとなります。
つまり 人びとは その自由意志によって勝手に 道に迷い勝手に――ともかく偉大だと褒めておけばよかろうと思い成して――或る種の褒め殺しをもおこなっていると言わなければならないでしょう。
**** すなわちつまり ブッダにしろ空海にしろ誰にしろ すべては このわが主観の内にしかいないと知らねばならないはずです。そういう哲学が待たれます。
その心は もし人を偉大であると言って褒める場合には あくまで特定の個々のことがらに限ってその中身をしっかりと明らかにし その事由を添えて おこなうことが望ましい。これです。