caguirofie

哲学いろいろ

存在論

何をしたいかで 悩んだことはありましたが。


生きたいからでは だめなの?


生きたいとは別に思っていません。
だからといって死にたいわけでもないです。

存在と存在理由とは どちらが 大切ですか。
 生きる理由が分かったから 生きるのですか。
 生きるから 考えるのではないのですか。

 存在と理性と どちらが 大切ですか。
 理性の要求を満たしてからでないと 存在を受け留められませんか。
 考えるから 存在するのではなく その逆ではありませんか。

 生老病死が苦であると思いなさいというふうに マインドコントロールされていませんか。
 考え悩むことが かっこういいという近代人の流行病にかかっていませんか。

 出発点における認識で ボタンの掛け違いが 起きていませんか。
 もし 生まれて来てすみませんとまで 思うと仮りにすれば そう思わせているのは どういうことが どのように はたらいているのでしょう。
 ブッダデカルトに罪はないでしょうか。

 生きる目的を どうしても特定せよということでしたら

   意志疎通の成立を図り これを維持すること

これを 提案します。いわゆるコミュニケーションのことですが 

   見解の相違を 互いに 受け容れて 共生を持続すること 

これです。ものごとの知解・解明と同じように 意志の発現とその表示およびそれらの互いの受容が 重要だと考えます。科学することと同等に 大事だと考えます。
 見解がちがっても 人びとは 同じ社会に生きています。存在のことを 意志によっても 対話をとおして 異者をも含めて 相互に受容すること これが 生きる目的です。
 家族・友だちを超え 同じ同胞をも超えて 共生できるといいでしょう。そのあと――という意味は 同時並行して でしょうが―― 大いに自由に 世界の探究に臨めばよいでしょう。

学ぶ姿勢は とうといものですが 一部の投稿に対してしか応答出来ていないのは やはり おかしいのではないでしょうか。
 コミュニケーションが 差別なくとれて 初めて 何のために生きるかが決まるであろうし 実際にも 生きていると言えるようになるのではありませんか。
 物理学をやっていれば 自分の好みに合わせて人を選んで話しをしていけばいいということでしょうか。

 見解がちがうとだけでも 応答すべきではないでしょうか。それで 何も 問題ないはづです。理由を添えれば さらによいでしょう。
  このコミュニケーションが 意見の対立をかかえつつでも 進みゆくこと そのように努力することが 生きる目的ではないでしょうか。
 もちろん ほんとうは 目的じたいではなく その前提であり基礎なのですが この基礎の確立じたいを 現状では 目的にせざるを得ない情況なのではないでしょうか。
 そして 目的というのは 一人ひとりちがっていて むしろ何をするか・どんな仕事をするかの問題になるというふうに思いますが いかがでしょう。
 重力は 人間にたとえれてみれば 意志であり 意志の重みのことではありませんか。この意志つまりきちんと意思表示された内容を 互いに 違いはこうだ いや ああだと対話しつつ 尊重しあうことが 生きることであると思いますよ。


回答者さんの言う通り、一部の投稿に対してしか応答出来ていないのはおかしいです。
回答者さんは全ての回答とそれに対するコメントを読みましたか?僕は全ての回答には目を通し、リンクや提示して下さった本なども調べて読んだりしています。そして全ての回答にコメントしようとは思っているのですが、見解がちがうとかお礼だけでは失礼だと思い、自分なりに考えて、まとめるようにしています。それができた回答にはコメントできていますが、いいコメントを思いついていない回答にはまだコメントできていません。コメントを考えるのですが、うまくできずに後回しにすることも多々あります。たくさんの回答をいただき嬉しいのですが、全ての回答にコメントをするのはもう無理かもしれません。
ただ、コメントしようと努力はしています。どうか、コメントのあるなしで回答を差別しているとは思わないでください。

 コメントをいただきました。
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 ・・・そして全ての回答にコメントしようとは思っているのですが、見解がちがうとかお礼だけでは失礼だと思い、自分なりに考えて、まとめるようにしています。それができた回答にはコメントできていますが、いいコメントを思いついていない回答にはまだコメントできていません。コメントを考えるのですが、うまくできずに後回しにすることも多々あります。
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 ☆ たとえば 自らの成果を発表する初舞台というほどのことでもなく あるいは 担当大臣としての国会答弁でもないでしょうから もっと気軽に考えて行かれてよいと思いますが その足元では しっかりと考えておられるということですから 《分かりました。思う存分 思惟や想像力をめぐらせて行ってください》とお伝えしておきます。
 ほかのみなさんも 安堵し 安心して行方を見守っていかれることでしょう。 
 それでは。

 すでに 《もう安心》の宣言を出して さよならのごあいさつを済ませているのに その舌の根も乾かないうちに しゃしゃり出て来ました。
 ANo.79さんのご見解との関連で ひとこと 言いたくてです。

 じつは 関係をすべて断っても 生きていることは出来ます。
 それは 言いかえると 関係が 負の内容を持つ場合です。
 嫌われたり ばかにされたり 見下してこき使われたり 食い物にされたり巻きあげられたり 横柄な態度に出られたりしても 関係は つづいているわけです。

 ところが 《無関心というやつ》があります。つまり 関係が ゼロだという意味です。マイナスでもプラスでもないと 人は アップアップして 酸素不足になるようなのです。つまり 無関心は 死なのです。

 ですが この死なる無関心という関係にある場合でも 人は 生きています。堂々と生きています。不思議ですか?
 ここまでです。
 
 ★ 人は何のために生きているのか?
 ☆ に答えるための糸口になるかと思って 出しゃばり投稿しました。