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哲学いろいろ

サド

サド:『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』(植田祐次訳)を途中まで読んだ中間報告です。

 §1. 文学作品として駄作であること―― その叙述が 一回性という現実性に欠けること――を問います。(§2・§3)。
 また クリスチアニズムの理解が間違っているということ これをも問います。(§3・§4)。

 §2. ジュリエットが殺人を犯すそのおこないについて 描写を端折り過ぎていること
 
 ▲ (p.27〜) 〜〜〜
 ジュリエットは 厚かましくも夫の寿命を縮める罪深い考えに熱中した。
 ・・・
 幸いにも ロルサンジュ夫人(=ジュリエット)は人目につかぬよう事を実行したので いっさいの追及を免れ 夫をあの世に送った恐るべき大罪の痕跡を夫もろとも葬ってしまった。
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 ☆ これだけで済ませている。これは コトが《成功》したかどうかにかかわらず 当事者を取り巻く情況のいきさつとして必然性を読者に説得しなければならないと考えます。
 人殺しといった稀なコトであれば 殺す者も殺される者も 互いの間の絡みというものが いかに推移するか。これに 現実性はかかっている。たとえ途中で その謀を取りやめにしたという場合にも それとして思いと行ないの一回性が 殺す側と殺される側とについてきちんと述べられなければ読者は説得されません。
 ブレサック伯爵が 伯母を毒殺するときにも――話の筋としては 伯母がその計画をジュスチーヌに打ち明けられ 逃れようとしたけれども なお逆に甥の伯爵によって裏をかかれたというかたちとして おもしろいと思ったのですが―― あまりにもあっけなくコトが運ばれるというのは 虚構の創作者として安易過ぎると見られます。
 筋だけを運んでおけば 作品になると踏んだ浅慮がのこります。

 §3. テレーズと名乗っていたジュスチーヌが サント=マリ=デ=ボワの修道院で修道士らに凌辱されたあと かのじょの取った行動に疑義があること

 あるいはかのじょがしかるべき行動を取らなかったこと ここから疑義が生じます。疑義の中身は 一回性もしくは現実性としては上の(1)と同じですが この場合にはさらに《キリスト者であること》をどのように設定しているかにかかわっています。

 すべてを端折って言えば 凌辱を受けたあと・というよりは その受けているときに ジュスチーヌは 抵抗している。やめて欲しいと叫んでいる。おそらくこれは 信仰の問題としては 何を信じていると言えば キリストの神ではなく 《美徳》をあたかも神のごとくに信じているというふうにも言えるかと考えます。
 かのじょがしなかった行為とは 自由意志を踏みにじる行為に対して もはや何もしないという行動 これを採ることです。言いかえると その凌辱行為に対して きちんと憎んでいない。おのれの内面において憎み その悪であることを論証し批判し その批判内容を悪行者にも向ける。表情や自己の態度で相手に臨む。これを行なっていない。
 神のことを思うよりも 美徳を守ることを思っている。そういうキリスト者としてサドは設定している。これだと ちょうどニーチェが 観念の神と観念的に格闘したように 自分が間違って規定したキリスト者ないしクリスチアニズムをその抵抗や挑戦の相手としているに過ぎないと言わざるを得ません。

 この修道院でのその後の経過は もはやうどんが延びてしまっているとわたしには思われます。

 §4. 《キリスト者》を問題にしてもよいと考えられるその理由

 まだ青年であるブレサック伯爵のクリスチアニズム批判が 堂々と登場するところから 前項(§3)を問題にしてもよいと考えられます。
 ▲(p.126) 〜〜〜〜〜
 神は天体と人間の心を支配する至高の動者なのだから 天体を使ってぼくたちに教えるか さもなければ 人間の心を支配する至高の存在を刻み付けてぼくたちを得心させるか どちらかの手だてを取ることができるのではないか。
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 ☆ アマテラス科学語をつうじてかそれともアマテラス人格語をつうじて 神はみづからのことを人間に現わし示せということのようです。出来ないというのが 相場です。出来たら 神ではない。
 まったくはっきりしている神学の初歩です。哲学にとってもその内容は かなっています。

 以上によって 文学書としても思想書としても 失敗作である。と見なします。