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哲学いろいろ

こころみられるということ

▲ (ビートたけしさんの震災に対する発言)

http://news.biglobe.ne.jp/trend/0320/rct_110320_5747204897.html

    《ビートたけしさんはTBSのニュース番組『情報7days ニュース
    キャスター』に出演して東北地方太平洋沖地震に言及》

 「腹立たしいのは、日本人はいつからこんなにマヌケでセコくなったのかって! 泥棒が死体からお金を盗ったりさ、空き巣に入ったりさ、いろいろやるでしょ? ああいうのはね、撃ち殺していいと思うんだよね」

 ☆ こういう発言は 確かに《心理作戦》だけのやり取りであるかも知れません。
 けれども 《泥棒》行為はすでに心理戦争を超えています。
 まづそういう問題があるということが ひとつです。
 つまり そこまでの嫌がらせをはたらいて挑発することもあると考えられます。

 あとは このたけしのようにブチ切れた発言を 勝手にやられてしまうと 多くのふつうに地道にたのしく生活している人びとが その市民としての社会づくりの努力に水を差されてしまうということ。この点も ややはづれますが お伝えします。

 要するに たけしほどの阿呆はいない。なぜなら そのような泥棒行為をなくすために ふつうの人びとはふつうに真面目にたのしく生きているところを・つまりだからこそ 誰一人として犯罪行為をしなくては生きていけないという人がいなくなるようにと努めているところを それらすべての努力を台無しにしうる阿呆発言であると考えられるからです。
 たけしのバカは その場しのぎで一時的に犯罪をなくそうとしているに過ぎない。その犯罪に遭ってしまった人びとの憂さ晴らしのために代弁しているにすぎない。それが 一時的な気休めにしかならないということ。――もしそうでなければ おれの話は何か意味があると勘違いしているだけに過ぎない。どこまでばかなんだろう。
 つまり それに同調する人間が多くいて たけし発言が取り上げられるということはその数が多すぎるということであり そのことは 過去の意趣返しであるにせよそうでないにせよ もはや前後の見境なく ほかの人間につらい思いをさせ嫌な傷跡を残させることが出来たらよいという料簡の人間が多くいるということのようです。
 つまり いまの世にたけし批判が少なすぎるということではないでしょうか?
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★ これで、わかることは日本人は幼稚なものを好きになる / 傾向があるように思います。
 ☆ この《好きになる傾向》ですが もしいわゆるお二階さん(公民圏)がからむ事柄の場合には その《振りをする》という実態がある場合が多いようです。
 お二階さん(つまりあるいは いわゆるお上)がそうさせようとするそのコトについては 一般におとなしく従っていますが――つまり右へならえというほどにおそろしいほど従順に振る舞っていますが―― これはただその振りをしているだけという場合も 少なくありません。

 芸能界が 公民圏に属しているのならば そのお二階さんのやることなすことにまづは従うという振りをする。こういう傾向があるのだと考えます。

 ★ それはなぜなんでしょうか?
 ☆ 全部が全部 振りをしているとは言えないでしょうが もし振りをしているという場合について考えるならば それは 昔むかし 人びとはそのお二階さん族にいわゆる《国ゆづり》をして 好きなように行動させたという歴史があるからです。
 昔は 二階建てではなかった。平屋建てだった。それを どうしてもおれたちに統治させてくれと拝み倒しにかかって来たので 最後にはとうとう くにゆづりしたのです。わざわざ第二階という神棚までをこしらえさせて そこに住まわせた。好きなようにさせた。思いっきり甘えさせた。
 見通しが甘かったと言えば そういうことのようです。

 ただし いまさら――と言ってもすでに千五百年経っていますが―― 返せとは言えない。その二階から降りて来いとは 言えない。もう心ゆくまで 王様ごっこは堪能したろう? と必ずしもおいそれとは言えない。
 そういう事情があります。

 ★ また、それは悪い事ですか、良い事ですか?
 ☆ 人が不平不満をかこっているときには よほどその度合いが強いようであるなら いちど思いっきり好きなようにさせることは それほど悪いことではないでしょう。
 ただし見通しが甘かった。
 もう堪能した。不満も遠のいたという状態になっても むしろその偉いさんの地位を 今度は保守しようとした。秀吉や角栄が出ても つまり一階から二階へアマアガリする人間が――菅直人をも含めて――出て来ても 一向にこの二階建ての構造は変わりません。

 ですから もし
 ★ 幼稚なものを好きになる傾向がある
 ☆ というその傾向も そういう振りをする傾向に過ぎないと言ってみても 現代・現在に到っては 言わばそばが延びてしまって やってらんないという空気がただよっているということだと思われます。
 幼稚なものを言わば上からあてがわれるように演出されたなら それを好きになる振りをするだけではなく もう破れかぶれで受け取ってやろうとでも思って振る舞っているのかも分かりません。
 ともかくうどんが延びてしまっているとしたら それはよくありません。悪いことです。
 いまは まづそういう歴史的な背景や社会的な情況を把握してみることが大事なのではないでしょうか?
 この把握ができてその事情や実態がどういうものか分かれば 案外あとは人びとの心構えのようなことだけで簡単に片がつくというようにも思えます。さて どうでしょう?