caguirofie

哲学いろいろ

国家・9

すでに書いたこととして:
 ○ 排除された第三項で しかも その排除のされ方が 見事であったゆえに 死後に その排除の側から 聖化された場合。
 ☆ これは キリスト・イエスの例が いちばんだという議論があるということでしたが 
 ○ 我が国では 菅原道真が天神さんとして祀られた。
 ☆ というのが 分かりやすいでしょうね。
 ○ 聖徳太子にしても どうも そのようなのですが。

 ★★ (先方の議論)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 イジメ論ということで言えば、「排斥、あるいは支配」というのがその本質だろうと思っています。
 2年ほど前、拙ログにも記しているのですが、その心は、他者の中に異質を捏造することによって自己アイデンティティを確立しようとする。
 です。 / つまり、《第三項ないし異者 の排他(排斥)》が、ある個人においてはもはや必然であるわけでしょう。
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 ☆ これにつきましては 取りあえず お応えしようと思えば こうです。
 ○ ひとは 孤独です。どうしようもなく 独りです。この孤独は――あるいは それは 独立性でもあるのですが―― じつは すべてのひとに共通です。 
 ○ そこから 《第三項》が 現われると説きます。最大公約数として共通であるゆえ 第三項として 除け者にされ 生け贄にされるのだと。
 ○ つまりは 第三項に いぢめる側は 自己自身を見ているということのようです。同類であるゆえに 異質性を持つ者をつくり 異者として扱うようになる。
 ○ いぢめるのは 元気を出せと言って 自分自身を 奮い立たせているとも言えます。と同時に 自分が いぢめられる側に回るのは いやだから しっかりと 異質な者だという共同観念を作りあげ きちんと いぢめておくという気持ちもあるのでしょう。
 ○ それには 《一匹 対 九十九匹》という構図が いちばん いいのでしょうね。
 ☆ そういった意味での――観念および行為の錯綜した構造としての(=コンプレックスとしての)―― ★ 《自己アイデンティティの確立》の問題なのだと言います。

 この《いぢめ》だけを取り出せば まだ 《支配》という問題は 出ていないかも知れません。それが 明確に現われるのは やはりおそらく 一定の社会全体に 支配構造が形作られたあとではないかと思われます。いわばその全体の支配の構図を 縮小して=相似形において 見倣うぶんには その社会体制にとっては 《和を乱す》ものではないと受け取られるということでしょう。
 いわば――たぶん 例として出して いいと思うのですが―― 家元制度が 典型的な 《秩序の体制》であると考えられます。家元のいくつかの縮図としての分身が ヒエラルキアをつくっているという事態です。

 この秩序でもある支配の体制を築こうと思い立った人間 それは いったい どういう思惟・内省=生産・行為の形式を持っていたか。この問題ですが No.19に移ります。

 ★ (先方の議論) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 愛であるとも言えるのかもしれませんが、愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出しているようでもありますね。
 支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じるものがありそうです。
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 ☆ この問題に関しましては 長談義になると考えます。その理由を ひとことで言えば 武力による支配体制の確立というものは 高が知れているということだと考えます。首のすげ替え クーデターでしょうか に終わるだけのものは 大して 研究に値しません。
 これには きわめて 思弁的な思索 したがって あたかも山師のような予想屋になっての むしろ神学的な瞑想を 哲学によって経験的な思惟として 解釈するという作業が 必要であるかも知れません。
 ★ 愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出しているようでもありますね。
 ☆ この一文に着目します。そうすると 二つの要素が 浮かびあがります。
 ○ 《わたしは 神のように いかなるものの下にも立つまい》という決断をした者だと捉えられる。どこから そういう決断をするようになったかは 分からない。
 ○ たとえ 悪魔に魂を売ってでも 悪魔でさえ 光の天使を装うのですと言われるごとく 自分は 有徳の人間にならざるべからずと決断して 修行をおさめた者だと捉えられる。


 ★ 支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じるものがありそうです。
 ☆ この要因について どう捉えればよいか まよっていますが おそらく わたしの感覚のほうでは 
 ○ 《怖れ》は 持ったかも知れない。
 ○ まづは 包括・統括そして《光の天使》としては 《愛》に通じる包容 これを おのが旗に描いて 振る舞ったであろう。
 ○ という意味は その抱擁にも似た包括としての秩序を 第一に掲げ そのもとで この秩序を乱す行為に 排他性を発揮する。
 ☆ と考えます。


 《同和問題》というのは 歴史の初めからあったわけではありませんが 恰好の第三項形成の事例だと考えられます。エタという名前がつけられました。
 その事例という意味は 《排除・排斥》というとき 一方で 除け者として・また生け贄として(あるいは 見せしめとして) 完全に抹殺するまでに排斥する場合と 他方では そうではなく 第三項として 自分たちの孤独のあたかも支えとして そこに・という意味は 社会の周縁に 居てもらわねばならず 居てもらわねば困るとさえいう場合とが あるはづです。
 後者は《生かさず・殺さず》としての排除形式ということになります。
 そういうウタの構造が 考えられるのではないでしょうか?

 
 今回は――と言って どこまで続くか 分かりませんが―― ここまでとしたいと思います。どうでしょう?

【Q:自分の身を守るのはいけないことでしょうか】
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