caguirofie

哲学いろいろ

さとり

 ブッダがいわゆる出家を志した動機としては 生老病死の四苦をあきらかに見ることだったと言われますが 老病死のみっつの苦については分かりやすくても 生という苦については 分かりづらいようです。
 宮元啓一の説によると――これはわたしは bonbonnier という方からおそわったのですが―― 生存欲のことだそうです。
 なおまだ分かりにくい部分を残すと思いますが 周りのことが目に入らずただひとりだけにおいて生きようという欲望に駆られているときの無明(無知)なのでしょうか。

 ▲ 宮元啓一:苦楽中道――ゴータマ・ブッダは何を発見したか――
 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

 ☆ これによると まづブッダが初め修行のためについた仙人らのおしえは こうであったと言います。
 ▲ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  輪廻←―行為(業)←―欲望

 すると、輪廻的な生存をやめるためには、つまり解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよいことになる。この解脱のメカニズムを図示すれば、つぎのようになる。

  欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ☆ ところがブッダに分かっていたこととしては この《欲望の滅》などは 一時的な・心理的な・うわべのことに過ぎないということ。そこで到達した結論としては 先に触れた生存欲としての無明なのではないかだったと。欲望の起こる根源を見つけたのだと言います。

 ▲ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  輪廻←―善悪の業←―欲望(貪、瞋)←―根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)

 ・・・では、欲望のよって起こる根源である根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは、ふつうの人間には自覚できないことをはっきりと自覚すること、根本的に無知だった状態から最終的に脱出することである。
 これを可能にするものこそが、無自覚、無知の対極にある智慧であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。すると、解脱のメカニズムは、図示すれば、つぎのようなものに改められることになる。

  根本的な生存欲の滅―→欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ☆ ただしこの智慧は わたしに言わせれば たとえばブラフマニズムが梵我一如として世界との一体感を説いたことに見られるような《心がやわらがしめられている状態》だとは思います。
 そう考えると ブッダはそれほど新しい考えを編み出したとも言えない。
 ただたぶんですが ブッダは なにぶんにもブラフマニズムを否定しておのれの説を打ち出しましたから けっきょく神(ないしブラフマン)はいなかったわけですし 後世に説かれて来る仏性も明確には言わなかったので 拠りどころがあいまいに成ってしまった模様です。
 《おのれ》を拠りどころにせよと言っているか あるいは《ブッダ自身 もしくは 観念のブッダ》をそれとするか。さらにあるいは 《戒律のみ もしくは その修行のみ》という派閥を生むことになってしまったか。《言葉では何も言い表わせない》という密教方式に走ったか。などなど 拠りどころは不明確・不明瞭なものとなりました。つまり多様なものとなりました。
 ぎゃくに言えば 仏性 このひとことで済むはずだとも言えますが いづれにしても 後世においてだけではなく その思想は初めから迷走をしていたと考えられます。カリスマのごとく人びとからアイドル視はされていたようですが。

 あるいはさらにつけ添えるとするならば
 ○ 根本的な生存欲
 ☆ に無明(無知)の根本原因を見るというのは 或る種の仕方でブディズム風の《原罪》を見たということかも知れません。クリスチアニズムでは キリスト・イエスの出現とその死で この原罪もちゃらになりましたが ブディズムでは 後世に出たアーラヤ識に通じるというようなこの原罪論が 決して正面には据えられないようですが 大きくくすぶっている。こう考えられます。
 つまり 思想そのものがすっきりしないのですから 《人助け》も――いくらかの物語に伝えられた話を除けば―― やはりはっきりしない。というところではないでしょうか?