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哲学いろいろ

第三項の排除

今村仁司が 《第三項排除》の理論として述べているところを 勝手に 脚色して 紹介してみます。

 まづ 《承認欲望》が 人にはあると言います。
 人は 存在として・つまりは存在の関係として 社会的である。しかも主観としては 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。さらにしかも その自由への変身を まちがって追い求める傾向があると。

 独立主観であっても 初めに基本的に 関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。そのとき ややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つのだそうです。
 この承認欲望がおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性あるいは同じ歌の合唱という情況だけでは まだ 相互の承認が 完成したとは見なされない。
 そこでさらには 一定の基準を持とうとし 基準というものをこしらえる。この誰にも共通の基準となるものが 《第三項》である。
 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。その一定の輪の境界にまで押し遣られ 必ずしも当事者どうしではなくなるという意味で 第三項と称される。このとき 一定の単位社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくるようになる。さらには 一般にこの《他の皆》は 第三項として隅に追いやられた者を たしかに 《除け者》として扱うようになる。
 このように 第三項を 皆で排除する構造が出来て初めて 互いの承認が実現し 人びとは 安心して安定した《仲良し》状態とその社会的な《秩序》を楽しむことができると言います。
 このような傾向を 人類は 悲しいかな 残念なことに 持っているのだと。
 《いじめ》論でもありますね。
 『排除の構造――力の一般経済序説』1992です。

 もっとも そもそもにおいて 自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。
 また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。

 排除された第三項は 歴史的に キリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも 論じていたはづです。
 〔第三項は それが いわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくに それを 聖化すると言います。呪われたかのような除け者を いわゆる生け贄と見なし それに 聖性を付与する。したがって 今度は 聖なる第三項を みなで あがめるという体制を敷く。このことを通して あらためて 秩序と安寧をたしかなものにするのだそうです。そういう仲好し倶楽部なのでしょうね。ですから そこでは はっきりした敵が出来たなら 戦争にまでも 容易に 発展させることができる。うんぬんと〕。

 ★ 「排他を発揮しなくとも生きることができる」
 ☆ までの議論には到っていませんが その情況への過程として この理論に従えば まづは 《第三項ないし異者 の受容》を みづからの生活における態度や実践として かかげる。言論活動として そしてその言論内容の実現に向けて 踏み出すことが 求められるということのようです。

 つまりは 話し合いということに帰着するようなのですが どうなのでしょう?