美学についての ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理
ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理( Hidocchi=bragelonne theorem )
〔あるいは美学の第一定理 もしくは Hb 仮説〕
美術作品についての感覚による第一次の鑑賞にも 感想や批評のことばがつく。この第一次の鑑賞に属する批評の言葉が そのまま第二次の評論に用いられることがある。だが 明らかに二つは――中身が同じであっても――違う性格を帯びる。
第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっている。
第二次の評論は 一般に第一次の感想にもの知りと見られるような知識や背景事情などなどの情報を交えたものである。
ところがこれが 第一次の感想すなわち《初発の美の感覚とそれより派生した言葉での批評》 こういうみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとするようになる。
すなわち《美は論理で分かるものであり 論理でしか分からないものだ》と。似ても似つかないふたつのいとなみが現われている。
《評論》説は 現代美術界のコンセンサスを成すと思われるが それによって一般に審美眼の劣化を意味するしその劣化をもたらしたという見方をせざるを得ない。
これが 仮説の骨子である。
そしてその《第一次の美の感覚》理論によれば 《作品がすべてである》と見ている。
如何なる意味においても《作家は その作品創作において 世界を見て捉えそれを表わすという過程をすべて終えている》すなわち《作家のうちで、弁証法的過程は済んでいる》と帰結される。