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哲学いろいろ

法の生成

わたしたちが野生の稲か麦を採って食べようと思ったのは いったいどこから来たのでしょうか?
 木の実や果物あるいは苺などの実を採って食べるのと どこが違っていたでしょう?
 やがて 稲にしろ麦にしろこれらを栽培するようになりました。種を植えて育てます。最後に穫り入れをして食物とします。
 《知恵の木》から採って食べるという言い方をしますが たしかにこれらの発見や発明は 知恵にかかわっているようです。
 ところが この知恵の木を 《善悪を知る木》とも言います。そういう言い方が持たれています。
 この善悪を知るというのが そもそも《法》の成り立つ起源であるでしょう。
 では どこで善悪を知ったのか。何が善で何が悪なのか。
 
 はっきりしませんね。
 たとえば そもそも野生の鹿や猪を採って食べることじたいに 何かこころの落ち着きの無さを感じたのでしょうか? それと同じように 野草や野菜や木の実を採るときにも どきどきする気持ちを覚えたでしょうか。
 あるいは 肉や草(稲や麦)を煮たり焼いたりして食べようというとき そのように料理という手を加えるという行ないに こころに逆らうかのような感じを覚えたのでしょうか。
 さらにあるいは 自然に成っており生えているものを 自分たちの手で種から植え育てるという行ないに こころの揺れを覚えたでしょうか。

 たぶんいちばんはっきりしているのは ほかの人の見つけたものや採ったものを 自分が何らかの手段によって得てしまうこと。このような振る舞いにもし出たとすれば そのときには こころのやましさや後ろめたさを覚えたものと思われます。

 それなら 法の生成について考えるのもかんたんです。
 《むさぼるなかれ》と言います。あるいは《ぬすむなかれ》。等々。

 きわめて簡単な善と悪との分かれ目は こころにやましさを感じるか否かです。
 もちろんやがては この後ろめたさの感覚をも隠すことをひとは覚えていきます。法は 具体的な条文として 細かくなっていくのでしょう。
 でも考えれば やましさを隠すのも おそらくそのとき疾しさを感じるであろうから もともとの基準は 案外どこまでも有効であると言えるかも知れません。
 この考え方で 人びと一般に共通の理解が得られるなら 法は 思想としてのまま考えつづけられていくでしょうし また法なる規範としても掲げられるようになった模様です。