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哲学いろいろ

敬語

 ★ 敬語に関して 使っているのか、使わされているのか、
 ☆ ていねい語に関しては 《使おうとして使っている》です。
 ほかの尊敬語および謙譲語は その敬語が歴史的にあるから《使わされている》です。
 後者に関して 細かくはこうです。いわゆる世間の知恵として 潤滑油のごとく役に立つという場合でも それは ていねい語を用いて話をなめらかにするというこころがあるので 尊敬語も謙譲語もなくてもだいじょうぶなのです。

 ▲ (ヰキぺ:敬語) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
 敬語は、
 ○ 言葉で表現する主体(書き手、話し手など)と
 ○ 客体(読み手、聞き手)や その話題中の対象となる人との
 ○ 上下関係、
 〔あるいは〕
 ○ 話題中の人物同士の上下関係
 などを言葉の内に表現するために用いられる語法。
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 ☆ この《上下関係》というのが くせものです。
 ひととして尊敬し そのこころを表わそうとして ていねいな言葉を用いることに何の問題もありません。誰もが一致する見方であるでしょう。
 問題は 身分や地位が上にあるということにもとづいて ふつうの言葉づかいを特別の語法に代えるという意味での敬語の用法にあるのではないでしょうか?
 もしそうであるなら 敬語を使わなければならない場合 あるいは 敬語を使ったほうが望ましい場合などなど いづれの場合にも 《使わされている》になります。むろん 意図して・つまりは 自分の意志行為として《使っている》という事実もあって そのさらに奥の事実として 社会的な力学が過去の遺産としてはたらいているという意味です。


 その起源について考えると 分かりやすいでしょう。
 ○ めし(召し・飯 ← 見し)
 ☆ この《見し》という起源について考えます。

 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》
 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》

 ◆ (大野晋・古語辞典) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
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 ☆ シは スルという動詞。メは ミの母音交替形。見(め)スというのは 見ナサルというように 能動性をつけ加えているわけのようです。つまり (1)の意が現われます。《見る》という動作について能動性あるいは主体性をわざわざ言い表わすことで 尊敬の意を添えています。

 つぎに この(1)の見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》ということが起こります。その捉え方によって (2)から(6)までの意味の発生について 不都合無しと言ってよいでしょう。
 (7)は 《寄せた》あとの動作について しかもそのものごとに直接に触れず 遠回しに言うものです。直接に《食べるなどなど》とは言っていないという意味です。ほのめかして言うことによって尊敬の念が出ると考えたわけでしょう。
 (ひとに対して 《何々様》とつけて敬意を表わすというのは 《さま》つまり《そういう状態ないし雰囲気ないし情況》が見てとれますが おそらくその雰囲気の主はあなたさまであろうと思いますと言っているところからであるようです)。

 ここで 別の解釈をします。
 シを 使役の意に採る場合です。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。
 すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できます。ただし モノを取り寄せるという用例では 合いません。おそらく この使役の語法は 第二次的であろうとも考えられます。
 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。召し使い(つまり ここに《召し》が用いられています)は そばにまで行かなくては食事を運び得ません。高貴な人は 自分では着替えもしなかったようです。ゆえに 《めし(召し⇒飯)・召しあがる・お召し物(衣服)》という意味が派生したのではないでしょうか。

 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞であるこのシをとおして 第一次と第二次の用法が見られます。第二次の用法は ヰキぺで言う《上下関係》にもとづく尊敬語法となるでしょう。表面的でもあります。
 第一次の用法は では 人びとの生活から ふつうに・自生的に 起こったか。言いかえると 《ていねい語法》であったか。
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよいはずです。古語では ル・ラル。これは 自然生成の相を表わすようです。《出来る》という可能の相も――《出て来る》と言っているに過ぎないのですから―― 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとするものです。
 自然生成かつ能力があるという相を その表現に使えば 相手を敬うかたちになりました。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないのですが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいないでしょうか。この語法にかんしては 身分関係にかかわらず 人と人との互いのうやまいの気持ちをつうじておのづから発生したのではないだろうか?
 
 結論:
 自然に生成した第一次の《うやまい ないし ていねいな言葉遣い》としての敬語は ひとは《すすんで使っている》です。
 社会的な身分関係から発生した尊敬語ならびに謙譲語は 起源から言って・奥の奥の意図から言って ひとは《使わされている》。

 その昔 太平洋の島々の人びとの間では いわゆる酋長は偉い人であるから ふつうの人が直(ぢか)に見ると 目がつぶれると言われていたし 信じられて(思いこまれて)いました。つまりこの風習と 《めし(見し)→召し》という言葉の発生とは 軌を一にしていると考えられます。
 このメシが 《飯》として使われるようになったのは――つまりそれに柄のわるさがついてまわるというような語法にも変化したのは―― その敬語法が 必ずしも自然のものではなく 社会力学上の第二次・人為的な発生であったことを物語るのではないだろうか。《貴様》という語法の変遷について誰かが触れていましたね。