caguirofie

哲学いろいろ

きよらかなおそれ

《現実の損得》は大事です。《軽薄》であっても 大事です。

わたしたちは 法を侵す人たちの存在を しっかりと受け留め 共存しうるため いかにして共同自治していくかが おおきな崇高な悩みです。

《社会的一般感性に合わないのではないかという危惧》も きよらかなおそれだと思います。

この偉大なおそれと悩みのもとに 現実の損得勘定の問題も じっくりとその正体をみつめながら 対処していきたいと考えているのですが。ちからと知恵を合わせてという月並みなこたえなのですが。

現実の損得勘定については ふつうの勤勉と それの自己目的化したガリ勉とを分けて捉えるとよいでしょう。

ところで きよらかなおそれは なにものかの美しさに属(つ)くことによって 生まれます。

美しさに或る種の意志を――まぼろしのごとく――見ます。この何者かの意志に属くことによって かえって 自分の意志が生かされるのではないかという予感が芽生えます。この予感のあるところに 社会的一般感性(共同観念のもとの共同心理)に対するおそれも起きて来ます。

ですが このおそれを抱く意志(愛)のあるところに つまづきのおそれはありません。

愛のあるところに おそれはありません。愛のないところに きよらかなおそれはありません。

きよらかなおそれの水かさが増していくにつれて――みづからの水嵩も また 同じ意志を抱くともがらの水嵩も 増すにつれて―― 幻想のもとにある損得勘定は 溺れるかのごとく やがて 踊り出すことでしょう。 十年かかるか 百年かかるか・・・。