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哲学いろいろ

他者の発見

他者の発見は 人間の発見の中に含まれる こう捉えるようになりました。含むというのは 《認識を超えて感じる》すべての場合をというまでには至らないのですが。

とはいうものの 人間を発見したというときには その他者が 感性において能力において人へのこまやかな思いにおいて等々 見出されたと言えると思われます。言いかえると おそらく部分的な他者の発見です。

しかもこれらを人間の発見というのは 実は そして 実に これらの発見したことがらは 自分の中にもあったと知るからです。(逆に つねに 発見は自己の発見であって ついに他者の発見は為し得ないとも言われるのだと思いますが)。

いやな事例を挙げてみます。公共の場でのことですが 少し席をはずして戻ってみたら 人が坐っています。わたしの品物も置いてあるのですが そう言っても その人は聞きません。話もしません。しばらく経っても 一向に事態は変わりません。こんなとき 他者を感じます。

この例は 要するに 答責性を持たない人としての他者です。

思想の問題で わたしが他者を感じるのは 梅原猛 河合隼雄 山折哲雄 そして 吉本隆明です。

前の三人は つかみ所がありません。怨霊 悪 無常をそれぞれ主題として 論陣を張るほどの言論活動をして来られていますが いったい何を言おうとしているのか。けっきょくは 世の中 なるようになると言っているようにしか分かりません。もう少し色をつければ世の中 現状でよいという主張なのかも分かりません。

ぬえのようなと言っても ぴんと来ませんので たとえば 山の中腹に霞がたなびいているといった感じで 他者を感じます。

吉本隆明については およそあらゆる主題で議論を示していると思われます。賛否を別にして それに対して議論を交わすにも 骨の折れるような濃い内容です。しかも非常に煮つめた話になりますが 何を言おうとしているのか これは分かりません。

しゃれた議論を提供することが 目的なのか。あるいは それは 飯の食いはぐれのないようにというそのために行なっているのか。また そのしゃれた議論の使い道が なかなか見つからない。

共同幻想》といえば わかったようになりますが そのあとは――るる説いてもいるようですが―― だからどうなのかというとき 分かるものではないと思われてなりません。

《関係の絶対性》――これは 重要であり 大きな貢献だと思っていますが それにもかかわらず 全体として捉えようとすると はっきりしません。他者を感じます。霞が 降りてきて 足で立ち 大股で歩いているのですが すぐにも霞に立ち戻るかのように 煮つめていくと感じるといった情況です。 

ですから まとめとして 

(1)他者は部分から感じるし ある程度は言葉にして表現し 認識の対象として知ることもできる。

(2)それは おそらく 存在の全体という意味での人間の発見に基づく。

(3)ただし そのとき その他者の発見は 単なる自己の発見にすぎないかも知れないというおそれはある。

(4)なお些細なこととしては 右利きか左利きか 右側通行か左側か 食べるのは箸でかフォークでか手でか 好きなのは野球かサッカーか 球技ではなく格闘技か囲碁将棋か・・・これらに類いする雑多な事例でも 認識を超えて他者を感じる場合が 意外と あるかも知れません。