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哲学いろいろ

グレン・グールド雑感

宮沢淳一:グレン・グールド論を読んで。
(1) 旧いことばで言えば かれは 偶像崇拝を避けた。アイドル(偶像)も 実力があるのだが ともすれば ヴァーチャルなもっぱらのアマテラスの部分で愛されるとすれば それは 虚像であり 偶像崇拝となる。これを嫌った。かれは スサノヲ市民の思想に根ざそうとしたスサノヲイストであった。
現在の日本ではかなり変わって スターやタレントが 実像で愛されるようになっている。歌手グループのSMAPの一人 中居正広は 人気があるが 音痴で売っている。ヴァライエティ番組やお笑い芸人たちが 虚像を実像に近づけるのに役立っている。


(2) グレンは 光輝くアメリカ合衆国のアマテラス部分に対して スサノヲイスムよろしく 関心を保ちつつ 一歩引いて超然たる態度( detachment )を採る立ち場に立った。また 故郷カナダにとどまった。その態度について 清教徒といった名称すら持ちだすかに至った。

おそらくは ただ スサノヲ市民――市井のひとりの人間――が アマテラス能力を発揮するのだということを もっと 自分の生き方として 打ち出すべきではなかったか。じゅうぶんに そのことができる才人であったはずだ。

つまり 虚像たるもっぱらのアマテラス部分については むしろその虚像として受け容れて 自らのスサノヲイストぶりを発揮してくれればよかった。どれだけベンチャラだとしてもその虚構の拍手をも それこそ超然として受け容れて そのさらにあとで または そのさらに奥で 市民スサノヲの地に足のついた開かれた孤独の実力を見せてくれればよかった。



(3)いささかの苦言

開かれた孤独。地に根ざしたひとりの人間スサノヲ その幹から実のった才能 つまり アマテラス能力。もっぱらのアマテラスなる虚像を超えるスサノヲの能力。この生活この生活態度の確立。

この人生のなかで まだどこかその翼を折り畳んでいて 開かなかった部分が残ったのではないか。

自己愛としてのナルシシスムには 二種類がある。社会のなかですでにアマテラス公民・公人の職務に就いていて その役割を担ってはたらくときに 人びとから拍手喝采を浴びるときに味わうというナルシシスム。もう一つは 自らが むしろスサノヲ市民であり そこに存在の根拠を求めるとき そこに 時として味わうナルシシスム。

どちらも 閉鎖的となるなら そのナルシシスムは 自由人スサノヲにとっては よろしくない。面白くない。翼が縮こまる。

吾人はすべからく インタスサノヲイスムにもっと信をおいてよいのではないか。