caguirofie

哲学いろいろ

監禁事件

想像の世界が あまりにも増殖し《繁栄》してしまったことが一因ではないか。アマテラス語の世界に 人びとは あまりにも 精通し 世辞に強くなった。

なるほど 人間の社会には 言語の二重性という現象は あって 容易になくならないかも知れない。それをただ なくそうとしても だめだと思われる。

スサノヲ語(人間語)にも たしかに言語二重性は 起こっている。戸を閉めた孤独に閉じこもって生きていければ 二重性も無いであろうが この孤独を開いて 意思疎通をはかるかぎり この孤独どうしとして互いに共鳴するのでないなら やはり相手の悪口は避けて いささかのうそを言ったりする。

この二重性は しかしながら 開くための・意思疎通のための・相互理解のためのものだ。

アマテラス語の二重性は 逆に 閉じるためのものである。閉じなくても己れが傷つかないためのものである。世辞を言って あとは 戸を閉めている。傷ついてもいいという勇敢なる者には この世の力にかかわるあらゆるものを手に入れるための二枚舌ということになる。己れを開くためではない。

言いかえると 人間語であるスサノヲ語にもとづき おのれの生活をよくするために世辞を使うのではなく スサノヲ語を利用し 人間をおのれのために利用することが 目的となっている。



とはいうものの このアマテラス語の世界は それ以上は無理というほどに 開発され発展し膨張してしまった。この言語に通じるという人びとは もはや そうでない人をさがすのが むずかしいほど あまねくいることになっている。

だれもが というほど この言語をあやつって生きている。

だが もしそうだとすると 人びとは もはや 自分のふるさとのごときスサノヲ語を使えなくなってしまった。人間語を使うと ばかにされるのである。バカにされなくても 隙をつくってしまう。ただちに つけ入れられる弱い一面を見せてしまうことになる。 

 

さて 男と女の関係は きわめて 人間スサノヲ語に属している。

したがって 結論を急げば この性の関係を アマテラス語の世界で完結させようとすれば とうぜんその付けがまわる。

あるいは アマテラス語によって このスサノヲ語の世界をあやつろうとすれば 誰にも隙を見せずに 一般に澄ました顔をしていなければならないのだから この澄まし顔や隙を見せない用心が 失敗してしまえば やはり 付けがまわる。

言いかえると 付けがまわるように なっているのが アマテラス語の人工の想像の国なのである。己れの人格を閉じるために 孤独に閉じこもるために そういう世界を作ってしまったのだから。

乱暴に言ってしまうなら 付けがまわって 暴発するほうが まだ スサノヲ語への復活の可能性を残している。

アマテラス語世界の住人を解放するためには スサノヲ語の開放・その自由な表現を考える必要がある。あたかもバカみたいにどこまでも自由な表現を促していく必要がある。ピエロの役割を演じてみせるのも ひとつの方策である。

だが アマテラス語に対しては その言語で築いた人徳は 蜃気楼だよと直截に指摘してあげるのが とりあえず一番だとも考えられる。

récidivité の問題が
重大なようだ。

だから 当面の方策として どうしても récidivisteに対して その足かどこかに その存在位置がわかるような工夫をするというそんなことも考えられてくる。

緊急避難として わからないわけではない。

しかも それこそ すべてが アマテラス語の世界の枠の中で その枠組みをさらに固く締めるために 工夫を繰り返しているように思われる。

もっと 自由なスサノヲ語の回復・開放について 自由に話し合ったらどうだろうか。

もしヨーロッパ人が 表現の自由を見失ったら ちょっと問題が大きいのではないか。

こんな簡単なミーハーな議論なんだが 一方で だから 人は見向きもしないとともに 他方では もし取り上げても そのスサノヲ語の議論をも すべてを何がなんでも A語でソフィスティケートしなければ通用しないということになるだろうか。