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哲学いろいろ

ヱーバ―

一つの論点についてです。ウェーバーは 

  (1)存在(人格)と

  (2)その人間関係としての倫理の問題と

  (3)職業精神(特には 職業としての学問の価値自由な普遍性の理念

  の問題)

これらの事項の――価値観の上での――先行・後行を あやまっているのではないかという論点についてです。

かれは書いています。文中にすでに カッコを施し * のしるしを打ってわたしの注釈を入れます。

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 我々は 諸生活現象(* 生きること)をその文化意義(* つまり よりよく生きること)において認識しようとする学問を(* ――つまり 生活上の対話その他の歴史の学問的な研究を――) 《文化科学》と名づけた。・・・

 ところが或る文化現象の形成(* つまりおのおのの対話じょうの文体ないし人格の確立というほどの意味あいで (1)の存在の尊重)の意義やこの意義の根拠は どれほど完全な法則概念(* つまり客観知)の体系からでも引き出され 基礎づけられ 理解され得るものではない というのは それは文化現象の価値理念(* 《よりよく》ということ)への関係を前提しているからである。

 (ウェーバー:『社会科学方法論』富永祐治・立野保男訳 p.51)

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 すなわち ウェーバーにとっても 科学という基礎を扱いつつ 文体ないし人格ないし(1)の《存在》が 自己の価値として 大前提をなしていると言っていい。そう確認できる。
   信念(* 主観の文化意義)無きことと 科学的《客観性》とは なん

  ら内的縁由をもっていない。

    (同上 p.26)

とも言っている。平たく言うならば たしかに 対話し文体する人間存在としては なんらかの信念を持っているゆえに その信念をみがいていくためにも 科学的な客観性を問い求めるのであって そのような普遍的な概念としてのことばを 吟味し 時には作り出して 用いていく必要があると。

 問題は 主観の文化意義(価値観)の表明 つまり生活としての対話すなわち文体の 《成立》の問題という点にある。これが 以下に成立するか 果たして成立しているのかの問題となる。

 わたしたちは じっくりとウェーバーの方法を捉えて行かなければならないが そこを乱暴にも単純簡潔に述べてみよう。

 

 では ウェーバーが文体ないし対話人格の《成立》を論じるのは 次のようである。

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 或る現象の個性(* 或る行為の主観)が問題になっているときには 因果問題とは 法則の問題ではなく(*―― 一般的な行為に対する客観認識の問題ではなく――) 具体的な(* つまり その特定の人の行為をめぐる)因果連関の問題なのであり いかなる公式にその現象を類例として属せしむべきかの問題ではなくて(*――客観法則上の類型的な把握の問題だけではなくて――) いかなる個性的様相(* 主観のありかた)に この現象を その結果たるものとして帰属せしむべきかの問題である。つまり それは帰属の問題である。

 (同上 p.55)

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 すなわち ここでは こうであると分かる。つまり 具体的な行為が その当事者たる人の存在もしくは主観へ どのように帰属するかの問題 これが ウェーバーにおける対話文体の成立の捉え方である。

 この議論の切り口から考えられることは ウェーバーとしては 具体的な行為つまり 具体的な文体が 或る主観(主体)に帰属していることが分かって初めて 文化現実(生活)が成立しているのを見ると言ったことになる。

 つまり 当然のことを確認しながら進もうと思えば ある客観法則(たとえば資本主義)によって 類型的に 明らかにされる行為というものは そのままだと その認識が まだ社会的な生活現象の一般的な次元での認識でしかない。行為の因果連関が或るひとりの主観に帰属させられて初めて 生活の実践となる もしくは その実践の認識となる。類型的客観的に資本主義的な行為形式だと分かっていても 一個の人間・その主観真実にまで たどりつかなければならないのだと。少なくとも 科学研究には あるいは 科学研究にさえ そういう一面があるのだと。

 ここまで来れば 結論へと飛んでも差し支えないと考えられます。

 存在と存在関係における事項の 先行後行にかんして けっきょくは 後行するもの〔つまり (3)職業精神そして(2)倫理 むしろ エートスと言ったほうがわかりやすい)から その経験現象や行為事実を認識し始めて その内容を 先行する(1)の存在・主観に やはり認識じょうの科学行為として帰属させる。こう言っていることが かれの学問あるいは思想ないし信念の 基本的な形式(内容)ではないかと推し測られるようです。