主はみづからが愛する者を懲らしめる。
《ことだま》という言葉が日本語にはありますが わたしの場合にはそもそも初めには《事(こと)霊(たま)》であったろうと見ています。
何かの自然の現象や社会の事件といった《こと》として わたしにひらめきを与えたなら それは 事霊であったのではないかと思うというわけです。
事霊が事霊であったと伝えるのは 言葉ですから そのとき同時に《言霊》と呼んでよいかどうかは 言葉による表現つまりたとえば
▲ 誠意:私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。まごころ。
☆ という言葉による表現が われわれにひらめきを催させるかどうかにかかっているのではないでしょうか。
さらにたとえば 次の文章を読んでみてください。長いですが。
◆ (アウグスティヌス:詩篇注解) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・・・事実により 言葉により 考察により そして範例により
主は正しい人びとを強める。(37:17)
罪人は かれらの欲する限り また許容される限りで 荒れ狂うがよい。《主は正しい人びとを強める》。
正しい人に何が降りかかろうとも かれはそれを敵のもろもろの力にではなく 神的な意志に帰すべきであろう。
確かに敵は荒れ狂うことができよう。しかし神が欲さなければ 打つことはできない。
そして敵が打つことを欲するならば 神はいかにして人を救うべきかを知りたもう。すなわち
主はみづからが愛する者を懲らしめる。
主は みづからが受け容れるすべての息子たちを鞭打つのである。
(箴言3:11−12⇒ヘブル書12:6)
わたしの父が不正な人を用いて かれ自身に対する鞭を造るからと言って 不正な人はなぜ喜ぶべきであろうか。
主はかれを奉仕させるために用い わたしを〔神の国の〕相続へと訓練する。それゆえ 神が不正な人の行ないをどれほど為すがままに任せるかではなく 正しい人をどれほど守っているかを よく注意すべきであろう。
(アウグスティヌス:詩篇注解 第36編 説教2〔4〕
谷隆一郎訳 著作集18巻II 2006)
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☆ おそらく 《主》だとか《神》だとかの言葉を用いずに 同じような中身のことを――事霊と呼び得るような中身のコトを――表現し得るようになれば のぞみが消えないといったところではないでしょうか。《罪人・正しい人・敵》という――或る意味で安易な――規定も どうにか出来ればよいでしょう。
言葉は記号であり道具ですから いかようにも用いておのれの心を伝えるようにして行けばよいのではないでしょうか。
* ちなみに 小沢一郎や北朝鮮や中国政府らは その《おこないがどれほど為すがままに任せられるか》について関心を惹くところですが わたしたちはほかの普通の人びとがどれほど守られているか――また試練に出会って問い求めの道をあゆむか――を見つめながら進んで行くと言ってよいのではないでしょうか。