caguirofie

哲学いろいろ

わたしといじめ問題

そう言えば いじめについて 
直接には考えて来なかった。


わたしは 関心を抑えてきたわけでもなければ 逸らしてきたわけでも 後回しにするといった考えで来たのでもない。
基本的に言って 欠陥を取り除くのではなく その人が自分自身に還ることを促し これを通じて たとえば いじめも しなくなるという筋道を描いていた。自己回復によって 欠陥を克服するという基本の考えを 対処の方針にして来たわけだ。自己到来 自己還帰については いやというほど 考えて来たし 書いても来た。

直接に なにか 表現できれば もっとよいかも知れない。



と言っても わたしに いじめの経験が 全然ないというわけでもない。
小学校のときに明らかに その事態に直面していた。その後も しょっちゅうと言ってよいほど受けていたが けっきょく ほとんどは 間接的なものだった。陰湿だが たいした内容をともなうものではなく どういうわけか 尾を引かないものだった。だから 直面するという事態は 言ってみれば つねなるものでありつつ 私が意に介さないという情況だったようではある。
(もっと言えば たしかに私が鈍感で 大抵は その事件なり問題点なりが一段落ついたあと そのことに気づいたのだった)。


この後者の点を いま振り返って――いまの考えにおいて――述べておくなら こうである。
それは 問題は 相手にあり 相手が欠陥を持っているという問題であり それに対して わたしは あわれむことはあっても 同情などいっさいしないし(同情など されることを もっとも嫌うわけであるし――なぜなら それは ただの気休めにすぎない――) あとは その相手が やはり自己還帰・自己到来するのをささやかながら手助けするということである。この自己回復を 側面から援助するという仕事にかかりっきりであって いじめの問題は へのかっぱにしたままである。(へのかっぱにしたという意識も なかったわけである)。


方針は こうであるが けっきょく たいしたことが出来るものでもない。
言わば敵にささやかな塩を贈るわけだが たいして贈れるものでないし 目に見えて効を奏した事例があるというものでもない。
まあ この点については 相手によって そのいじめのような態度を引っ込めた場合と そしてもう一つは 一向に効き目がないという場合とがある。ただし 後者のばあいも 態度は変わっていないが 攻撃的でありつづけるということはなくなったわけである。


さて 何から考えていけばよいものか。