caguirofie

哲学いろいろ

胎動のころ

胎動のころ     plutonien, plutonique



ぼくは自分が陰画のままで生きて行かないはづはないと信じているのだろうか。それともぼくは頑迷に自分自身の焼付けを拒否し続けているのだろうか。


それはむしろぼくが自分の絞りを極度に開け放してしまっているからかも知れぬ。ぼくは果たして自分で瞬間開閉器を押しているのかどうかさえ だから 怪しくなる。感光過度 現像さえままならぬ。


しかし・・・
ぼくは しかし 再びむしろ ぼくの乾板は 不感光の状態が つねなのだ。
ただ 人が 有能な手品師よろしく かれの陰画を 陰画そのものを あたかも焼付けされ 引き伸ばされた陽画のごとく 手際よく おもむろに見せるとき ぼくの乾板は 猛烈な錯乱を起こしその勢いは 不感光にもかかわらず 潜像を写すのである。ぼくはこれを現像して その陰画となる。



わたしは 自己の印画紙を忘却の河( Léthé )の早瀬に足を取られ 流してしまった。人が暗闇とよぶところ そこに行かなければ 焼付けも能わず わたしは 陽の映像を結ばない。


人がこの世で印画紙の上に魔術を行なうとき わたしは陰画のうちに うづくまる。遠い旅路をふたたび歩みだす。わたしは日の光を超え 胎動のころに遡る。そこを経て さらに わたしはわたしの原形 両性の原細胞の結合の瞬間をとおり抜ける。その脱皮の瞬間 わたしは眩暈を覚えて倒れる。


やがてわたしは この地に 自己の写真を見出すだろう。わたしは この地でふたたび〔原始的〕胎動を始める。この永劫回帰の原世界にてわたしは 岩漿となり やがて 深成岩としてまた日の光を浴びることだろう。