鏡をとおして謎において
しかし他から攻撃され誹謗されるということは
その人間が人々の間にまだ問題とされていることを裏付ける。
しかるに彼らから全く忘れ去られたと思う時
われわれの孤独と寂寞とは
その極に達するのではなかろうか。
さればこの詩人は言う。
我は死せる者の如く人の心に忘れられ
破れし器の如くなれり
(詩編31:12)
(浅野順一:『詩編――古代ヘブル人の心――』
けれども この《孤独》が 人間の孤独であって この地点にも人の心があって 言葉がこのように発せられるとするなら これは 《もっともわたくしなる》主観であると同時に 共同主観の核であるのではないだろうか。
来たるべき時代は むしろもはやこの《孤独》が大前提となるであろう。
大いなる孤独が 英雄的日常 日常的英雄となる。
共同主観( commonn sense / interSusanowoïsme; interMuraïsme = intercapitalisme )は やはり一個の主観にこそ発するのであり スサノヲの輩出する時代となるであろう。
かく生まれし上は
吾は所詮 運命の子
必ず己れが何者かを
つきとめてくれようぞ
( Sophocle: Oedipe )