caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-23 - caguirofie100923よりのつづき)


大岡信の作品をさらに引く。


  きみは描けるといふのかい ありったけの
  絵具をつかへばこの空に 絵が

  きみは乾かすことができるといふの ありったけの
  枯草を集めて燃やせば この濁流が

  おおきみは照らせるのかい ありったけの
  夕焼け雲をころがせば このぼくの夜の芯が

  ・・・

  美しい娘 きみはどこにもゐないから
  ぼくはきみとどこでもいっしょに暮らしてゐるよ

  美しい娘 ぼくにきみが見えるやうには
  きみにぼくが見えないので ぼくにはきみがいっそうよく見えるのですよ
    (《馬具をつけた美少女》1977)


 わたしは 《いまだ生まれぬ赤子を わが子であるかのようにして あたかもシシュフォスの石のように終わりの来ることなく 育てていた》と書いた。しかしこれは 両義性じたいの問題においてであると 実は限定しなければならない。なぜなら 詩人がこの両義性を展開するのは 当然のことながら 詩人としての資格においてである。これは 社会的な一つの役割のことである。


 つまり石は 積み上げても積み上げても 崩れ転がり落ちてゆくが それは つねに 或る不動の位置にあって じっとその事態を見つめるという《詩人》がそこにいるからである。或る不動というのは 不動であろうと努めるかたちでもあるが また社会とその役割分担が 向こうのほうから 詩人にそうさせるところの不動といった位置づけでもある。


 この詩人は しかし 西洋風に表現するならば かれはムーサイの女神にまみえているという恰好である。この詩神は 全体なる多義の系の中にどっかりと腰をおろしていてこそ 詩人のその《神へのまみえ》が観念共同されうるというしろものである。しかし詩人・大岡は みづから この多義の系なる共同観念をうたって描く。わるく言うと いわば繭の中で 堂々巡りのように。

2010-09-25 - caguirofie100925へつづく)