caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-19 - caguirofie100919よりのつづき)


たとえば


   ああいま樹々のあいだで
   裸になって
   わたしはあなたをおもう
   地上のどこにもいないひと
   雹を運ぶ蒼白な実りの焔
   わたしの臓器に放電する
   あなたの非在


 これは 《曖昧さ》の文字通りの例となって あまり適例であるとは言えないかも知れないが そのあとすぐ続いて


   あなたはわたしの精神の敵だ
   だが敵の思われびとかもしれないのだ
   (以上 大岡信:《樹々のあいだで――清岡卓行に――》1956−59)


と あたかも《育児》の歴史を語っているのが聞かれる。(あいまいさを育てて それなりに たとえそのまま曖昧であったとしても もう分かる曖昧になっているよう育てるという意味あいである)。しかしこれは 同じ世代の同じ傾向に属すると作者・大岡が自ら言う《清岡卓行に》 明白に宛てて書かれているのだ。
 あるいは


   あてどもない夢の過剰が〔ひとつの愛から夢をうばった。〕
   (大岡信:《青春》1949 カッコを付したのは引用者)


 これが大岡の著作集(第一期ともいうべき全十五巻)の第一巻*1の最初に掲げられた詩 その冒頭の一文である。こうして そもそも太初に あいまいな多義性が――つまり ここでは《夢の過剰》が――あったと見なければなるまい。

(つづく→2010-09-21 - caguirofie100921)