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哲学いろいろ

共同主観と共同観念

 問題は ひとの思想です。思想とは 生活態度のことです。
 ただし一般に 生活態度と言っても 思想であるということは 普遍的な中身のあるものでありたいわけです。
 人それぞれの主観において思想は成り立ちますが その主観の内容が人びとに共通のものであれば そのまま共同の主観(コモンセンス=常識)となります。

 このときやはり一般に 一つの時点においては 旧い共同主観としばしばそれに対抗して芽生えつつある新しい共同主観とがあります。
 ふるい共同主観は すでに現実のあり方とは遊離している場合が多いようです。それは ただ既成事実であるというだけで――もしくはけっきょく その既得権益を保守したいという勢力によって守られているというだけで――存続しているという場合です。これは個人個人の主観からも離れているとすれば 観念として流通しているだけという情況にもなります。アマクダリ関係が例に挙げられるのではないでしょうか?
 つまり 共同観念と言えます。あるいはさらに もはや現実とは関係のない場合は 共同幻想とも言われます。禁忌(タブー)となって そのかたちで 存続しているという状態です。ローマ教会など宗教がその例です。

 そうしますと このような共同観念や共同幻想が一般的に言って有力な社会の情況にあって あたらしい思想が 共同主観になるには ふるい観念の共同が 確かに旧いのだと説明する必要が出て来ます。
 その説明には 思惟をまとめる必要があります。
 思惟をまとめるには 頭の中でよほど棋士のような先読みとその体系化をすべてこなせなければなりません。たぶん 無理でしょう。それには 文字に起こし記録したものを繰り返し思惟し直すという作業が必要であり それがあれば十分にこなせるようになります。
 文字に記した文章を読むには 一般に書物ということになります。