caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第一節 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系

§3

かつて インドなる世界に興味をもって趣味か研究かわからぬような手を伸ばしていたとき わたしは 次のような覚書を取ったことがあった。いまもその考えに変わりはないので まづその一節を引くことから この第一章を始めたい。

  旧い伝承によると。――
  かつて ソパーラ(ボムベイ〔ムンバイ〕近くのインド古代の一海港都市)が アフリカ大陸と地続きであった頃 ガンガー(ガンジス)の河は 存在していなかった。今の南インドが その肌を太陽の灼熱にさらして頃 ヒマーラヤの山々は 海の底にあった。
   或る時 非顕現の自存神ブラフマンが 迷妄(マーヤー)を得て その幻力(マーヤー)によって 顕現する。山々が起き上がり インドの原野が生まれる。(大陸移動説)。ヒマーラヤは 雪をいただき その峰の上にあって ブラフマンは 水を ヰ゛シュヌ神の足元から注ぎ シワ゛神の髪を伝って 原野の中を流れさせる。すなわち ガンガーは ヰ゛シュヌから発し シワ゛を伝って ふたたびブラフマンに還る流れとなる。
   シワ゛は 迷妄を運び 原野に 自我(アートマン)の種子を植える。自我を育てるのは ブラフマンの意志(マナス)である。このとき ヰ゛シュヌは 激しく震える。自我(アートマン)が ヰ゛シュヌの源とつながることによって あるいはヰ゛シュヌと反発することによって 意(マナス)がそこにもう一つ 我慢(アハンカーラ)を生む そのことである。
   ブラフマンは さらに これら自我(アートマン)・意志(マナス)・我慢(アハンカーラ)を容れる身体(シャリーラ)を造り 自らの顕現を完了する。有類にして可滅的なるもの・インド人の誕生である。・・・( E.M.Forster: A Passage to India part 2 ch.12 の冒頭の一節を参照)。

すなわち 以上は 非顕現の唯一神ブラフマンそしてこの神が しかも迷妄を得て 自ら顕現し その顕現したところの両契機であるヰ゛シュヌおよびシワ゛について――これら三者の全体として ひとつの三位一体的(?)な連関をなすだろうか―― 何がしかのことを捉えようとしたものである。それは もとより不十分であるが この節では このようなヰ゛シュヌおよびシワ゛ そして両者の連関に焦点をあてて 社会形態的な構造にも進む もしくは 《政治領域》を明らかにしようとする。ブラフマンについては 次節にくわしく考察することにする。ここでは アマテラス−スサノヲ構造を 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》連関体系といった概念において 把捉したい。
 さて まづ上の一文に加えてさらに 一般的な説明を把握しておこう。いささか教科書風の説明であるが 次を掲げる。現代人であるわれわれは そこから むろん呪術性を揚棄した視点をもって その概念を捉えるべきである。

ヰ゛シュヌ

   この神の最大の特徴は 宇宙を三歩で踏破するにある。しかも第三歩は 最高の天界にあって人間の視界を超絶し いかなる生物もこれに到達することはできない。そこは 至福の光明界であり 神々および敬虔な者の歓楽郷である。本来 太陽の光照作用を神格化したものと思われる濶歩の神ヰ゛シュヌは 祭祀を保護し 人間に安全・広大な住居を与え 他の神々と同じく寛裕で慈愛に満ちている。
 (『リグ・ヱ゛ーダ讃歌』辻直四郎訳の中の訳者註。)

シワ゛

   ヰ゛シュヌと並んで後世のヒンドゥー教界を二分するシワ゛神の前身として注目すべきルドラ・・・。ルドラは多くの形相を呈し 強健な肢体を有し 髻髪を頂き 身体は赤褐色で金色に輝き 黄金の装飾を帯び 最も恐るべき武器として弓箭を携える。宇宙の主宰者 神界・人界の支配者たるかれは 強烈無比の破壊力を発揮し 天界の野猪と呼ばれ しばしば牡牛と称される。強豪・迅速で常に若く 勇士を統率し アスラの名を担う。
   神話として特筆すべきは 暴風雨神群マルトの父とされる点で マルト神群はルドラの子として ルドラまたはルドリヤ神群とも呼ばれる。かれの忿怒とその武器に対する恐怖は ルドラ讃歌の基調をなしている。しかしこの反面 かれのもつ医薬の効験は高く評価され ルドラは賢明で恵み深く寛裕な神として称賛される。
   名称の語源および神格の基盤については諸説が提唱されている。インドの伝承はルドラの名の語根 rud 《泣く・吠える》に求めて 《咆吼者》と解する。起源に関しては 強大な破壊力と万物蘇生の力とを兼ねるモンスーンの神格化と見る説等が行なわれる。ま祥た後世 この神の通称となったシワ゛ Siva (《吉祥な》)という語は 形容詞として一回添えられているにすぎず ヒンドゥー教におけるルドラ・シワ゛への発展を跡づける資料を リグ・ヱ゛ーダは多く提供しない憾みがある。
  (同上)

以上である。ここからは――いま ブラフマンについては しばらく措くことにして―― 始原的に言って ヰ゛シュヌおよびシワ゛は 前者が太陽の光明の神格として わがアマテラスに そして後者は 季節風の破壊力および万物蘇生力のそれとして わがスサノヲに それぞれ共通であると言って
よい。
《アマテラス=天照らす》は そのままで通じる。《タケハヤスサノヲ=建速須佐之男》については 《猛(たけ)く・速く・荒(すさ)ぶ〔あるいは スサ(遊・弄)ぶ――《おのづと湧いて来る勢いの赴くままにふるまう意》(大野晋)――〕の意を通じてである。あるいは スサノヲの子孫のオホクニヌシは ルドラと同じように 《医薬》と関係がある。
そこで この ヰ゛シュヌおよびシワ゛が 社会形成ないし社会形態にとって それぞれどのような役割を担うと見るのか。もとよりこの小論の目的は この考察にあるのだが それをなお いま少し 原典の中に跡づけておこうと考える。《リグ・ヱ゛ーダ》の中の《ヰ゛シュヌ讃歌》および《ルドラないしシワ゛讃歌》である。
(つづく→2008-08-25 - caguirofie