caguirofie

哲学いろいろ

#1

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

はじめに

はじめに この書物は 一般に 社会に関する考察として 新しい視点を導入することを試み まったく新しい書物であることを目指します。それは 必ずしも 一個人の思惟を述べようとするのではなく むしろ一般的に 思惟の形式を提示することを 目的とします。個体の思想を語るというのではなく 思想の枠組み(準拠枠)を明らかにしようと努めます。
個体の思想でないということは 必ずしも文学ではないという意味であり 文学でないということは 社会科学の視点に拠りたいと思います。ここで 社会科学の視点に拠って捉える思惟の形式とは 社会体系といった視座です。

《経済的社会構成が進歩してゆく段階として――K.マルクスによれば―― アジア的 古代的 封建的 および近代ブルジョア的生産様式があげ》られたわけですが ここでは アジア的な《生産様式》を むしろさらに アジア的な社会体系といった概念に広げて 次のような《経済的社会構成の発展過程》として 捉えることを仮説します。
一つの社会体系内の一定の社会形態が 必ずしも模型的な発展過程を経過するということでなくとも 一般に 西欧的な社会体系においては 上に規定されたように 段階的に 《〔前古代的(=国家としての社会形態の成立以前) 古代的(国家の確立以降) 封建的(国家ないし市民権の確立以降の 身分制による小国家連合としての社会形成態) 近代市民的(国家の分裂・再統合を別として 市民権が 身分制によるのではなく 経済的な関係によって成り立つ社会形成態) 現代市民的(近代市民社会が 国家という社会形態と深くかかわって営まれる社会形成態)な 経済的社会構成》をそれぞれ経過したとするなら 他方で ほぼそれらと同じ段階を アジア的社会体系が ただしアジア的社会体系なりに たどったと見る前提に立ちます。
このような変遷段階を アジア的社会体系なりに たどったということの意味は 一般にアジアにおける各民族社会が 各段階においてそれぞれの段階を構成する主要な契機としての概念を 西欧社会とは別の角度から捉えるといった視点を 固有に持っていたということから来るものであり たとえば 国家という概念についてみても その中で同市民関係を形成するという市民権の概念をかたちづくるに際して――たとえばそのような明確な概念規定を 必ずしも必要としなかったというように―― 異なる形態を採ることに現われているというほどのことからです。

  • 公民ないし国民もしくは同国民関係として 一般に やっと《市民》であったと考えられる。

あるいはさらに 身分制(経済外的強制)という事態についてみても おそらくは本質的に異なるとさえ見られる固有の概念(あるいは情況)を 持っていたと考えられ 従って 同じく必然的に この封建身分制を打ち破ることになる過程についても またその結果にしても いまひとつ異なる形態を採って現われたといった事柄が その根拠として挙げられると思われるからです。

  • 天下を取る人間(ないし民族)が変わって 歴史が変遷したというほどに 《天下》としての社会体系やその時間構造は むしろ変わっていない点など。


生産様式の発展段階としてマルクスによって挙げられた模型概念の中で 最初の《アジア的》なそれを 歴史の発展過程の中で ほかのそれらとは別個のものとして把握する視点について たとえば次のような見解が 参照されます。

  ・・・結論的にいえることは 《古代》と区別された〔たとえば 《アジア的》といった〕独自の生産様式を人類史の出発点として認めることはできず またアジア的生産様式なるものが認められるにしても それは古代的生産様式のアジア的変種 すなわちギリシャ・ローマなどの古典古代の奴隷制とは区別される《総体的奴隷制〕などをもつ生産様式として受け取られるべきものである。したがって マルクスが定式化し 識別することのできた生産様式は結局 古代的生産様式すなわち奴隷制 中世の封建的生産様式 それに《近代ブルジョア的》とされる資本制生産様式の三つに要約されることになると思われる。
河野健二:『西洋経済史』〈序章 経済史の課題〉)

あるいは これとは別に 言いかえれば 《古代的生産様式のアジア的変種・〈総体的奴隷制〉》といった把握とは別に 一般にマルクスに対する《ヱ―バー的問題》としてそれを把握する見解も 参照されるべきです。たとえば内田芳明は 生産様式(ないし共同主観体系)の歴史的発展への〔西欧的な〕視点を 《陽の思想》と捉え それに対して 《ヱ―バー的問題》とも言うべき事柄は アジア社会の問題としてみるならば ひとつに《アジア的・後進的社会の歴史的問題性》として あるいは一つに《〔ある生産様式が次の生産様式へと移行するに際しての〕過渡期の問題》として そのようにして言わば《陰の思想》と捉えうるような社会形成の方式がある。そしてそれと上の《陽の思想》とのあいだで 互いに交錯し直面する問題として いまの課題を 位置づける。たとえば

  マルクスの図式では上部構造に属するが 人間とその精神的・倫理的・思想的動因が 経済的下部構造に対してはもちろん さらにこの下部構造を中心とする総体としての歴史的・文化的形成に対しても それらの方向やその形成体の特質・類型を規定する という方法意識の相対的重視
(内田芳明:『ヱ―バーとマルクス――日本社会科学の思想構造――』 〈序論 《ヱ―バーとマルクス》問題の基礎視角〉

これが 《ヱ―バー的問題》の一つとして掲げられます。わたしたちは 生産様式(あるいは時代)の発展の動因を わたしたちの言葉で 共同主観の進展に求めるとすれば それに対して ここで このような《陰の思想》なる領域は 同じく共同観念の情況に見出すとしたいとも思うのですが

  • たとえば 共同主観は 幾何学の精神にもとづき 父系社会に より大きくかかわり 共同観念は 繊細の精神にもとづき 母系社会にかかわるとも見ておきます。

それとは別に このように 《アジア的・後進的社会と西欧的普遍文化(近代資本主義およびマルクス主義 そして近代思想とキリスト教)と〔の〕遭遇》(内田 前掲書)の局面は 端的に言って あるいは 一般に ふつうの人間の生活上の日常性の問題であるとも見たいと考えます。したがってそれは 単に《過渡期》のみの問題であるというのでもなく さらに従って 《後進社会の問題》は 近代資本主義の発展経過から見たそれとしてではなく それを一般的なかたちへと広げて 《明示的な共同主観による主導方式(つまり 陽の思想)(たとえば 言挙げすること)》にとっての《後進性 または 非明示性》として 捉える視点に立ちたいと思うのです。
そして そのことを 一般に社会形成の手順・経営行為の方式から言って 西欧社会とアジア社会とは おおきく社会体系が それぞれ違うのだと 見たいと思います。
この社会体系の概念およびその具体的な構造は それを明らかにすることが この書物の課題となります。また あらかじめ述べるとするなら この社会体系の視点から捉えた一般に市民の存在の
様式は――つまり その協働・所有・生活などなどの様式は―― アジア社会においてこそ 基本的に言って むしろ停滞性かつ安定性を持っており 時に その意味で むしろ先進的でさえあると捉える視点に立つべきだと考えることになります。

  • 明示的な共同主観(たとえば 自由・平等・兄弟愛)の先進性は ときにしばしば加速度が固定化してしまい 乱雑に進歩的になってしまうとき その意味での停滞性を呈します。収拾がつかなくなりかねません。もちろん両者を それぞれ 相対的に捉えるという基本的な視点には変わりありません。


そこで たとえば こう問うことができるでしょう。常識(コモンセンス)という言葉は そもそも 西欧的社会体系に固有の言葉ではなかったかと。共同主観(コモンセンス)であり 共通の意味関係(コモン・センス)=行為形式・生産様式としてです。すなわち common sense もしくは sensus communis として 上に捉えた各歴史的な経済的社会構成の段階におけるそれぞれの communisme (なる文明の様式)としての人間的な基層を成すもののごとくにです。奴隷制的にしろ国家(ないし市民権)の形成における あるいは 封建制的にしろ 身分制契約における また 身分制を打ち破る同市民関係(等位交通形式)における さらにあるいは 等位交通形式(自由競争)の結果の所得分配の格差への国家による直接的・間接的な再分配政策における それぞれの共同主観というものとしてです。
 sensus (感性・意味関係・方向感覚)における communisme とは 経済学の言葉で 非幾何学的にしろ幾何学的にしろ 各時代における価値の等平な共有・等価交換ではなかったでしょうか。不等価交換の等価交換への移行の運動ではなかったでしょうか。等価交換による一定の交通の体系 これが 共同主観の展開とされる歴史の過程的な側面であり 西欧的社会体系の――また それが 明示的でない場合を含めれば 広く世界史の――主要な動因を担う契機であった。または それが 西欧的社会体系においては すぐれて個体的に(つまり 人間の意志表現として) 明示的に そうであったのではないかと。
アジア的社会体系は 共同主観しない。観念的に 共同主観する。そして 観念的な共同主観とは 観念的な交通の水路体系の――その限りでの――動態的な要因を言い 観念的な交通の体系とは 等価交換への観念の運河のごとくであり 観念の運河とは 共同なる情感性 共同なる幻想 観念上の・または非明示的な sensus における communisme というものではなかったでしょうか。
そこで 西欧的。アジア的の両社会体系は 近代市民的および現代市民的なそれぞれの社会形成態の段階を通じて 社会体系としても 互いに交通する。交通されるほうは 共同観念する。共同主観するから 交通を進める。・・・思惟の形式とは ここにおける思惟の形式 もしくは 各社会体系の相互の複合的な構造 その視座ということになる。――
また 思惟の形式は 思惟を離れはしない。(言いかえれば 思惟の形式とは 旧い形式を一たん離れた思惟 にかんする形式である)。その意味で 文学を離れません。そこで 文学と社会科学の両分野にわたる思惟の形式 これが この試みの新しい立脚点を形づくると思われる。複合的ないくつかの社会体系の視座 これが 目指す課題です。
それの内容は かんたんに 従来の 明示的に共同観念された主観の諸形式 および 黙示的ないし例示的に主観された共同観念の諸形式 これらが 要素となっていると考えられます。
要約すれば このようにして 観念的に共同の社会的水路を構成し進展するアジア的社会体系と 明確に規定された共同主観的交通形成態を基盤とし発展する西欧的社会体系との 両座標が 互いに合わさった現代における思惟の形式となります。
(つづ→:2008-08-23 - caguirofie