caguirofie

哲学いろいろ

#2

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

――§5――

この序論において話をもう少し進めておきたいと思う。前段§3〜§4の議論を引き継いで。――
 すなわち (B)の場合のようなボブとアンとの《任意のコミュニケーション》の関係に立つことは 命題( a )( b )の原理性にかかわる内容を あくまで想定だと見続けることである。ボブもアンも その原理性なる命題にもとづいた正解を 知性による推理として追究し さらには実現させようとは 特に しないということである。
ところがもしこの想定( a )( b )も わづかにでも われわれの経験現実とかかわりを持つと仮定するのならば それはわれわれ一人ひとりの何らかの具体的な体験に現われるわけだが これをその限りで 非思考・非対象の体験とよぶことにしよう。
理論的には公理として この命題( a )( b )を提示してもよいわけである。別様に 経験とのつながりをわづかにでも捉えようと思えば この《もはや知性による思考を超えていて 従ってその認識されるべき対象をいっさい持たないのだが そのとき何がしかの体験があった》というときの経験を取り上げるほかない。ひとことで 信仰体験である。すなわちここで《信仰》は 非思考・非対象のことであって それ以外の場合には――つまり 有思考・有対象の場合には―― 単なる経験思考や観念操作であるという意味である。そういう定義である。
これによると 愛にかんする( a )関係性の原型たる ( b )実現不可能であることといった原理性は あくまでこの信仰体験とのみかかわって提示されるということである。この信仰体験を――つまりあくまで非思考・非対象であるにもかかわらずその体験を―― 事後的に何らかの形で認識の対象として捉え これを思考してとりまとめるならば 命題( a )( b )のような表現内容が得られるというものである。何らかの形で認識するというのは 表現し得なかったことを 人間の言葉で代理表現するということである。仮想として表現する。従ってこれらは つねに・どこまでも 想定にとどまる。
(B)の場合のような任意のコミュニケーションを 経験現在性のうちに捉えこれを主張することは その説明の上で いま上のような信仰の論議を要請するものと思われる。

――§6――

信仰を 大澤も論じている。けれども簡単に言えばそれは 次のような推論の中に位置して 究極的な抽象化とそれに対する信念や念観のことを言っているようである。それを 批判的に分析してもいるのだが 総じて 有対象の有思考を扱っているようである。つまり あらかじめ述べれば それは 信仰ではない。
実現不可能だが関係性の原型であると想定される愛は 差異を持った他者関係の問題である。愛は 意志として自らの志向や表現の問題でもあるが その自らの自由意志の決して及ぶことのない他者という存在 この他者との関係の問題である。つまり コミュニケーションや相互了解の問題だと言っていい。
このときこの差異ないし他者性は 性的差異だとされる。大澤の議論である。同性どうしの間にある差異をさらに否定して成り立っているからだと。ここに至れば 愛は 性愛の問題と見なされる。性愛関係が成立すると仮定するならば それが成立したときには――コミュニケーションが成り立ったということでもあり―― どうしてもそこに 二人をつなぐ要素があると考えられてくる。究極の他者性たる差異を二人が共有することができたと言ってもよいかも知れないし あるいは究極的に抽象化された高次の同一性(つまり むしろ 非同一性) これを共有し得たとも言いうるという。これが 《他者》であり 神であるという。
これに対する精神身体的な志向を 信仰ということになるようだ。
このような信仰は われわれの信仰概念(§5)から見れば 擬制の信仰である。信仰もどきである。そこに確かに 非対象にして非思考の体験があるとしても――つまり もうすでに信仰があったとしても―― それに関する事後的な翻訳や解釈は まちがっている。有対象すなわち 《他者 / 高次の同一性》なる認識の対象をめぐる思考体験であるものを 信仰というわけにはいかない。部分を共有しているかも知れないが まだ 信仰の擬制である。
信仰体験における非対象を翻訳するのに 神なら神という記号で代理表現する場合は まだ信仰にとどまると考えるのだが このように《他者》として大澤の分析し指摘する信仰は その分析内容についてすでにもはや哲学であるに過ぎなくなっている。それゆえ逆に 一定の主義・信念にはなりうるであろうが――つまりそれが ヨーロッパの・特に宗教改革以降の キリスト教だというわけだが―― およそ経験思考による観念と念観の域を出ない。
もっとも大澤は このヨーロッパのキリスト教の《信仰》を 《転倒》だと言っている。《性愛――上に触れた性愛関係の成立 による他者どうしの間のコミュニケーションの成立――からの転回》(p.44)だとも言っている。つまりあらためて全体として言えば 大澤は このわれわれが擬制と見る信仰にかんして 片やヨーロッパ思想における《主体性》に対する批判にかかわらせて批判的に捉えているようだが 片や愛にかんする原理性の議論のもとに必然的な歴史形態でもあると見ているようだ。その《結び》で 現在的であることは 同時に原理的でもあることだと言っている(p.245)。
要するに 性愛関係にせよ一般的な愛(人間関係)にせよ そこで他者どうしの相互了解が成立するというためには 相手の思惑・思想について知性によって推理することから始めて ついには抽象的な究極としての《他者》 これを共有するに到るという。到らなければ まだ 成立していないと言う。そのような意味で 成立したときには さらに 神だとさえいうのであり これをわれわれは歴史的に経て来ているというところまで 言おうとしている。
ボブは アンとの間に他者関係という差異を保持しつつ コミュニケーションにおいて相互の了解を得ようと思うなら 思考を重ねてその推論を究極のところまで推し進め 《他者》という抽象概念の共有にまで到るというのだと思う。または 抽象概念としてのその地点を通過すると言おうとしている。
われわれは むしろ中身のない(つまり非思考・非対象の)信仰概念を提示しつつ ボブとアンとの(B)の場合における任意のコミュニケーションを結論とする。この一点から批判を加えたい。つまり 互いの《結び》とするところの違いを明らかにすることである。そのほかの点 すなわち 西欧の愛や信仰の具体的な歴史経験 そしてそれらの思想に影響を受けた世界史の過程 これらの点にかんする批判的な分析としては 二の次である。

――§7――

この序論で ボブとアンとのコミュニケーションにかんする具体的な場面をもう少し捉えておこう。
§1における(B)の場合が 普通であると考えられると同時に たいへん望ましい。いちいち知性推理をくりひろげる(A)の場合――つまりもしくは 放棄しても なおこだわっている場合――は 批判的に捉えられるべきであろう。すなわち この(A−1 / A−2)の場合が実際にそれぞれ肯定的に遂行されるときには

 ( c ) 他者(アン)との距離を保持しつつ 他者(アン)の内に自己(ボブ)の全体〔たる意向=答〕を過不足なく見出しうる〔と考え進む〕体験
 (p.8)

が現われようとする。《他者との距離を保持しつつ》というのは むしろ愛の原型である。それは 実現不可能だが関係性の原型だというなら 差異を保った他者との関係に見出されると考えうる。《他者との距離を保持しつつ》というのがそれであり つまりこの望ましいとは思われない(A)の場合にも 愛の原理的な実現不可能性を――原理的には――保持しつつ ということになろう。そのようではある。けれども そうしつつも

( d -1 ) 《他者の世界に現われる自己》
(p.8)

にこだわろうとしている。アンが 《例の映画》ということばで指して言っている意味とその世界に ボブは自己の思想と答がどう現われるか あたかもあらゆる可能性を事前に自己閉鎖的に(つまりもしくは 自己完結的に)考え無限階の推理を敢行しようとする。つまり(A−1)の肯定的な場合である。あるいは アンの言う意味を作品として《道》か《哀愁》かいづれか正しく規定しようとして 自らの想像と推理の中で わざわざその《他者アンを対象化する》。そのとき (A−2)の肯定的な場合では その規定=正解としての対象化を 自らがひとりで決めてしまうわけであるから そこには

( d-2) 《他者アンを対象化しつつある自己ボブの全体》
(p.8)

が現われる。すなわちこのときには

( d ) 《他者の世界に現われる自己》が《他者を対象化しつつある自己の全体》と同化しうるような体験の領野
(p.8)

が繰り広げられようとする。自己閉鎖的に(あるいは 少なくとも 自己完結的であるかのように) しかもつまり 唯一の正解だと言わんばかりの ボブの姿勢がそこに見られるという寸法である。

――§8――

このことにかんして 大澤はまづ

( e ) 要するに差異と同一性の体験であ〔る〕
(p.8)

と言っている。答の完全性ないし愛の実現を求めての(A−1)や(A−2)の場合は 知性推理による正解を対象化したその《同一性》 つまり 正解知の共有が 体験されるというようである。《差異》がそのときにも 原型として原理的には保持されることは 否定する必要もないのであろう。原理的には 《他者との距離を保持しつつ》( c )である。
そしてさらにこの(A−1 / A−2)の場合における《同一性(つまり 正解知の共有)の体験》は

( f ) 《交換》としてのコミュニケーションに先立って 他者から(に)奪う(与える)ことを言う。
(p.8)

と言っていると知りうる。ここで《〈交換〉としての》という規定は よく分からない。ここでは 差異関係にある他者との距離を 現在性としても保持しつつ ささやかな有効の愛のもとに展開される表現関係のことを《コミュニケーション》と言うことにすれば ここに《〈交換〉としての》という規定は 不要であり 早くも言ってしまえば あってはならないであろう。
そのように狭義に解した場合 そうするとそのコミュニケーションに先立って=つまりむしろその手前で――アンの意図が分からないとすれば 正当にも――ためらいつつ しかもおのれの推理を逞しくしての《同一性の体験》(A−2)は その《同一性》を 《他者アンに与えることを言う》。つまりボブの導き出した・共有すべき正解をアンに与える。つまり正解であろうと推理したものを むしろ与える。アンもこのようなコミュニケーションの手前での同一性の体験に引き出されたとするなら それは 初めの原型たる愛(その想定)を・つまり二人の差異関係を 《他者から奪うことを言う》ということであるらしい。見えない原型としての関係性を 見える正解知としての同一性によって アンからそしてボブ自身からも 奪うということだろうか。知性推理としての解を対象化し これを同一性としようとしつつ 従ってその対象解の共有をめぐって表現関係をくりひろげようとすることは そのアンやボブ一人ひとりをも あたかも対象化してしまう。これをなお 《見えない原型たる愛の 現在型》であると言おうとしている。そうするのは 初めからの推論の運動の上にある限りでは ありうるのかも知れない。
これらの《与えあい / 奪いあい》をもし《交換》というのであれば 命題( f )の中の《〈交換〉としての》という規定は 不要である。あってはならない。差異関係を保つと思われる(B)の場合のコミュニケーションが (A)の場合には 知性推理による同一性の交換となって現われる。および やがて 高次の同一性なる《他者》の共有となるというのである。神を見るであろうとか。・・・

――§9――

かくてボブとアンの二人は 《性愛と資本主義》なるテクストにおいて

  • 孤独・性愛・信仰
  • 貨幣の可能性と愛の不可能性
  • 主体性の変移と資本主義の精神

なる三つの章の冒険に出る。あるいは それらの試練に出遭う。
(つづく→2008-03-29 - caguirofie080329)