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哲学いろいろ

#1

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ

序章:《ボブとアン》
§1〜§4:本日
§5〜§9:2008-03-28 - caguirofie080328
第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である
§10〜§11:2008-03-29 - caguirofie080329
§12〜§13:2008-03-30 - caguirofie080330
§14〜§15:2008-03-31 - caguirofie080331
§16〜§17:2008-04-01 - caguirofie080401
§18〜§19:2008-04-02 - caguirofie080402
§20〜§23:2008-04-03 - caguirofie080403
第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である
§24〜§26:2008-04-04 - caguirofie080404
§27〜§29:2008-04-05 - caguirofie080405
§30〜§32:2008-04-06 - caguirofie080406
§33〜§35:2008-04-07 - caguirofie080407
§36〜§37:2008-04-08 - caguirofie080408
§38:2008-04-09 - caguirofie080409

第三章 性愛関係をどのように論じてはならないか
§39〜§40:2008-04-10 - caguirofie080410
§41〜§44:2008-04-11 - caguirofie080411
§45〜§48:2008-04-12 - caguirofie080412
§49〜§50:2008-04-13 - caguirofie080413

序章:《ボブとアン》

――§1――

アンがボブに《あなた例の映画見たの?》と訊いたとき それに対してボブは無理なく自由に受け答えることが可能である。
まづ消極的な言い方をすれば。――

(A) 《例の映画》が《道》のことを言っているのか それとも《哀愁》のことなのか これが分からないからと言って いちいち考えあぐねる必要はない。
(A-1) アンの思惑を推理し 推理によってその中ですでに正解となるような応答を追い求めるという操作は 必要がない。
(A-2) あるいは逆に言って アンに直接そのどちらなのかを同じく尋ね返しもせずに 今度は推理を打ち捨てて自分勝手にどちらか一つに決めてしまい その上で《見たよ》とか《いや 見ていない》などと わざわざ答える必要もない。

このように答えを用意した場合も ボブはまだ考えあぐねているのである。
そうではなく 従って積極的に言えば。――

(B) 単純に事実をもって答えればよい。
(B-1) たとえば《〈哀愁〉なら見たよ》とか 《いや見ていない。ただしロキシーでの上映作品は〈道〉から〈哀愁〉に変更されてるよ。知ってたかい?》などと答えればよい。 

この(B)で 十分である。

――§2――

大澤真幸の次の命題にもとづくことができる。

( a )  愛は あらゆる関係性の原型である。
 (大澤真幸:『性愛と資本主義』p.244)

性愛と資本主義

性愛と資本主義

(こちらは まだ見ていない)

というとき ボブとアンとの人間関係は §1の例における(B)の場合のように 応答の完全性が未実現であってもその具体的な問答の過程を進んでいくならば その関係過程は むしろこの《原型としての愛》によって支えられている。その《原型》たることは 《あらゆる関係性の》であるのだから。言いかえると 実際には原型たる愛は 未実現にとどまっており その完全なる実現は未達成であってもよい。あるいは むしろ無理であってもよい。
すなわち ( a )の命題につづいてさらに大澤が説くように

( b )その《愛》には 究極的に解消できない原理的な不可能性が刻印されている。
(承前)

とわれわれも考える。しかも §1の(B)の場合のように応答の不完全性を抱えつつの《現在性》たる過程関係であることは この( a )や( b )の《原理性》にかかわる命題内容と必ずしも矛盾しないはづである。

――§3――

ただしさらに言いかえるなら 同じく上の§1の例での(A)の場合が (A−1 / A−2)それぞれ《必要ない》と考えられずに 実際その内容をもって表現された場合は どう考えるべきであろうか。このように問うならば それはいづれも ほとんど《現在性》にのみ――つまり 現存性あるいは単なる表現行為としての事実性にのみ――陥ったことになるのではあるまいか。《原理性》は 省みられなくなる。あるいはむしろボブは アンの思惑を推理によってどこまでも追求することにおいて 愛にかんする原理性を過度に省みている。
すなわち 《道》のことか《哀愁》か アンの思想にかんする正解にこだわり 答の完全性を求めて表現しようとする場合〔つまり そのような(A−1・2)の場合〕 その現在性の関係過程がむしろ原型たる愛〔( a )〕に支持されなくなるという事態である。さらに言うならば 原理性における原型を人間の知性推理によって 具体的な現在型に形作ろうとしたわけである。それは だとすれば 同じく原理性としての愛の実現不可能性〔( b )〕をむしろ無視しようとする態度に発する。
《原理性》すなわちここで命題( a )( b )のように提示する内容は 仮想である。議論を進めるための想定であり 概念装置である。つまりわざわざ これを《現在性(現存性)》と区別している。
しかるに 《関係性の原型たる愛》と表現された命題には 人を引きつけて離さぬ魅力があるらしい。これを究めようという人が跡を絶たない。《あなた例の映画見たの?》というアンの問いかけに対して 自ら一人の知性の力で完全なる応答を志向し これをもってさらにはむしろ愛を実現させようと図る人も 出て来ているのかも知れない。
それは 命題( b )に背くと説くのが 大澤の立ち場であるが それら全体の情況を知性推理によって究めようというのも 同じくその立ち場のようである。命題( b )に背くことなく――愛の実現不可能性という想定に背くことなく―― 命題( a )つまりあらゆる関係性の原型たる愛を 原理的にも歴史経験的にも究めようとしている。
その基本的な方向および堅実に運ばれる推論については 大方の首肯するところだと考えられるが ちがった角度からも同じ問題を扱えるのではないか。こう思われた。

――§4――

それは たとえば §1における(B)の場合のようなコミュニケーションである。問答における正解にこだわることなく 愛の未実現のままにしてあたかも有効な愛の過程を歩むというボブとアンとの関係である。これはじつは大澤も《任意のコミュニケーション》と規定して触れているところなのであるが 同じこれ自体も《原理的には〔そうなのだが〕》などと言っている(p.28)。われわれは この(B)の場合でのボブとアンとの関係は ごく普通の経験的な(現在性としての)コミュニケーション過程であると主張しなければならない。そこでは いまだ実現されぬまま原型たる愛が わづかに望み見られるかも知れない。その愛によって ささやかな相互了解の有効性として 支えられているかも知れない。言いかえるなら このことは 単なる想定としての原理性をどこまでも想定として保ちつづけるということであろう。――そしてさらにこのような議論が単なる推理であってはならないとするならば いまの原理性にかかわることは 一般に信仰という表現経験として捉えることができるし 捉えなければならないであろう。もちろんこの信仰について大澤は議論しているのだから それらの事柄について 一つの批判的な視点から 明らかにしていきたいと思う。
なお 愛の原理性にかんして これを《人間は存在じたいが関係である》と規定しこれを公理として議論を始める場合も考えられる。これは 主観を出来るかぎり扱わないで進める学的な立ち場である。方向としてはこの策へは進まない。
(つづく→2008-03-28 - caguirofie080328)