caguirofie

哲学いろいろ

#54

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−10

映画といった創作は その作者の主張が 直接に結論として ことばによって 表現されたと見分けがたいところがあるので 思想をかたちづくる社会生活の中の一編であるにちがいないけれど そのままでは 思想ではない。一般に 小説だとかの虚構による芸術作品が そうである。作者と言っても 原著者か脚本家か製作者か監督か俳優か これもあいまいである。事実じょう 十分条件の提言も あるいは必要条件の問題認識の提供も おこなっていて 文学としての思想だと思われるが 問題認識にも想像じょうの歴史事実が設定されるし 具体的な提言にも 読者・鑑賞者らの想像力にうったえるというかたちを採っている。これらが 有意義であり そういった形での役割を持つことは 何も言うことはない。また そのような性格の思想表現にかんして 批評することも その性格じょう 容易には 思想形成として 成功しない面がある。
芸術作品は 例示として扱うか それとも それらに触発されたということを認め そのあと 一たん離れて 自分の思想の方面で 論じて行くかしないと 触発の文化といったようなものに――もちろん それがわるいというのではないが―― なりがちである。言いかえれば 芸術作品の中の世界と いまここの世界とを 区別するあるいは綜合するという作業を介していないと 思想の暗示は 十分与えることがあるとはいえ 思想の十分条件を満たさない。きみはどう考えるか どうするのかという問いに答えるのが 思想である。
山口昌男の方法に対するわれわれの批判は もう一たん打ちきってもよいし 上に言ったような意味での文学作品は その物語の中味じたいの問題として 扱いたくないのであるが 一つの余録として 《第五章 映像の世界の文化英雄たち》を取り上げて 一つの締めくくりとしたい。
仕事で一年ほどだったかペンシルヴェイニアに行っていたわたしの友人が 帰って来て 話しをしていると ふと 何か或る考えにつきあたったのか 《 One flew over the cuckoo's nest. 》という映画を見てきたよと わたしに告げた。これは いきなり言ったもので 何のことか とっさにはよく分からなかったのだが どうやら わたし自身の普段の考えていることが この映画の主題と かれの頭の中で 重なって これを話題に出したということのようであった。まだ その映画は 日本にやってきていなかった時である。わたしはアメリカへは行っていないし 友人も とくべつそのストーリを解説しようとするのでもないらしい。どうやら わたしに そのような白紙の状態で すべて判じよということらしい。かれは黙っているから わたしも あれこれ推し測って それは 疑問形で言っているのかと訊ねた。つまり 《 One flew over the cuckoo's nest? 》とわたしに問いを投げかけているのか と尋ね返した。どうやら 当たっていたようで その後も しかしながら ストーリの紹介もそれに対するかれの批評も くわしく明かさなかったし 語り合わなかった。それでも そのときのわれわれの一つの共通に理解したと思ったところは 結局《カッコーの巣に喩えられる社会の上を おまえは飛んだのか》ということだったらしい。
わたしは 《飛ぶ》という表現に しっくり来るものがなかったが――《とんでる女》などといった流行語は そのあとだったか よく覚えていないほど なんで《飛ぶ》という言い方をするのか よく分からなかったし―― また 社会の経験現実を《カッコーの巣》にたとえるとか喩えないとか ともかく 自分の考えをまとまったものとして 書き上げたなどちう経験を持っていなかったのだから わたしは えらい(大変な)ことを言われたなと思いつつも――そういう感覚を受けつつも―― 話しが進まなかった。もうそのあとは 保留するかたちになっていった。
けっこう後のことだが やっと《カッコーの巣の上で》と訳されら表題の映画を わたしは見てみた。原作はいまもまだ読んでいない。友人との対話としても 保留したままである。
かれとも個人的な関係のことを除けば けっきょく わたしもこの映画を――山口の批評を読むまえに―― 見たということを 言いたかったまでだが そうして やはりストーリの紹介も 横着であるが 山口のそれにまかせて かれの《知の遠近法》なる書物の読みのしめくくりをつづってみたい。
山口は 《君のトリックスター研究にぴったりの小説があるよ。『カッコーの巣の上で』という作品だ』と言われて 見たあと そのことを肯定する批評をこの一章で 記しているのである。わたしは トリックスターとか道化とかの問題になると やるせない気持ちになる。どういってよいか 分からない。映画を見たあとも そうだったし この山口の話しを聞いたあとも そうである。《知の遠近法》なる書物全体についても そのようなところがある。
わたしの友人との この点にかんしての対話もこれからもずっと 保留したままであるかも知れない。もしかれがわたしに向かって 仮りにおまえはトリックスターかと尋ねたのだとしていたなら ちがうと答えるし そのちがうという意味は わたしはトリックスターを肯定的に評価しないのだから それになりたくてもなれないなどという風な 控え目の姿勢の問題ではない。つま謙遜するのではないし あこがれているのでもない。友人がそうだったかどうかを別にして トリックスターを肯定的に評価する議論に出会うと しかしながら いつも どう受け答えしてよいか 分からないというのが ほんとうである。その昔 わたいしは トリックスターのことなど知りもしなかったのだが。(道化のことは知っていた。これにも とくべつの感想もなかった。つまり感想は どう受け止めてよいか分からないというかたちで あったが 発展させるべきものはなかった)。
いいほど批判しておいて あとでこんなことを言うといって 叱られるかもわからない。あるいは 思想の〔方法の〕議論と 気持ちとは 行き違っているというような矛盾をおまえは やっとさらけだしたななどといったように。
これに対しては しかしながら はっきりしている。気持ちとしても 最後のところで 同感しないと はっきり答えなければならない。ただ これを言うのは やるせないというのである。
山口の議論は 次の二つの文章のあいだに はさまれて なされている。

(1) この作品《カッコーの巣の上で》は 明らかにトリックスターが飼いならされることを拒否して扼殺されてしまう映画である。


(2)世界を再活性化させる文化英雄たちが何時も窮死させられていては たまらない。
(第五章)

わたしのほうは ほんとうにやるせなのであって こんなふうに よう表現しない。またそう表現されたものにも どう言っていいかわからない。思い返して もし言うとすれば 思い切って言うとすれば 《トリックスターではいけない》ということである。この点は 気持ちとしても はっきりしているのである。
しかし トリックスターが《飼いならされる》という表現すらも あまり使いたくない。これも はっきりしている。人間を飼うとか飼わないとか それは 矛盾であり無効であると 基本出発点においては 絶対に口に出す。やるせない気持ちを承知の上でならである。だから 矛盾する文化停滞や無効の文化有力やの情況に対して その《世界を再活性化させる》ということばも われわれの辞書にはない。基本的には 無効は無効だよと 言い切り続ける以外には ことばを持たない。したがって 《世界を 周縁のかなたから 異人としてトリックスターが 再活性化させる》という行き方は いけない( one cannot go. )と言う。ただし そういう歴史事実は――つまり史実としても――あったかも知れないと考えるし 物語としては はっきりそういう形で 一般にも 伝えられてきているかとも考える。
あとは どう言えばよいか。
仮りに《〔供犠文化の社会有力の構造が 人を〕飼いならす》という場合 もし かのトリックスターならば その世の中における飼いならしの術の存在をも心得ていて 基本出発点をはずさず うまく立ち振る舞っていくのではないかといった一つの批判は たしかに あまりにも論理的なだけである。トリックスターや道化〔の文学〕は 仮りのことばとして 触発の文化だとおもう。こう言うことにしよう。そして さもなければ 娯楽である。もちろん わたしも 触発の文化に対して あるいは娯楽に対してさえ それらがいいとか悪いとか言った覚えはない。それは少なくともここで 別問題である。思想形成の十分条件をみたさないと言ったのである。十分条件をみたすべきだということと 触発の文化やあるいは娯楽を軽視することとは 別である。
思想の十分条件をみたすべきだと表現していても それはただ わたしたちはこれを満たしたいと言いたいだけにすぎない。トリックスター〔本人あるいはそれの推薦者〕は 満たしたいと思っているし そう主張しようとして しかも 満たしがたいという結果に なっているのではないか。触発の文化だとおもう。触媒ということば(化学現象)もある。そしてわれわれは 触媒ではない。仲人は要らないのではないか。(慣習をそれとして重んじて そのしきたりに従うという意味で 仲人を立てる場合などと 矛盾しない)。異感人の供犠文化――いけにえによる各自の同感人出発点の回復〔という想定〕――も 無効の上に成り立っているとは言っても この今の一般論は 一般論であって そこでは 同感人も潜在しているか 顕在同感人が観念化しているかであるのだから 実際にはその文化も 同感人と異感人との混同・混合である。異感人という規定は やや大胆であって その心はあくまで 異感状態という意味である。ただし異感人も 同感人でなくなり得ないとも 考え言ってきた。
基本的に同感人である人びとが 異感状態を その出発点に 混同させて持っているというとき だからというので その取りまとめ役としてのトリックスター などといった行き方は 想像力の世界・触発の文化として 有意義でもあろうが 思想=生活態度ではないように考えられる。もっぱらの患者あるいはもっぱらの医者に おそらく成り得ないように もっぱらの触媒たる存在に われわれは成り得ないし なる必要もない。もちろん化学現象としての触媒を否定するわけではまったくないが われわれは 触発者・再活性化の立て役者となることは ないと考える。同感人からの出発点およびそれにもとづく普通の生活態度で 踏み出しているとき 個々の事例につき 結果として 仮りにトリックスターの役割を果たしたという場合は そのような事後的な分析が ありうるかも知れない。だが 決してわれわれは 触発者の行き方を 基本生活態度の行き方として とるというのではないであろう。
われわれの思想は 同感人と異感人とを仲介するためにあるのではなく――また そのためであると言うときには そのときこそ 同感人やはたまた異感人が 観念モデルとなっている―― 確信をもって一人の同感人として 十分条件をみたすように自己の意見をのべることにある。踏み出しの一般論としてはである。おそらく いくらか唐突に言うとすれば われわれは 仲介するのではなく 異感状態を――その実際の場で それとして 引き受けつつ―― 生け捕りにすることである。異感人は ゆうれいであり無効なのだから けっして 肩の荷は重くない。
作品《カッコーの巣の上で》は けっきょくやはり 素通りさせてもらった。もう一節 余録をつけたそう。
(つづく→2008-02-10 - caguirofie080210)